
教会で食べたり飲んだりする理由(ルカの福音書5章27節~32節)
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序)教会ご飯の思い出
・教会で一緒に食卓を囲むことは、教会という存在を象徴する大切な活動です。福音書には、イエス様が人々と食事をする場面が色々あります。そしてイエス様の犠牲と将来の約束を思い出すようにと示された聖餐式もまた、直接的に食べて飲むという行為です。
1)取税人レビ
・取税人という仕事は、今でいう税務署職員のようなイメージではなく、ローマの統治構造と税制を利用した、公認の個人ビジネスといえます。大きく稼げることと引き換えに、人々からは嫌われた仕事でもありました。自分の生き方はこれでいいのか。でも立ち止まることもできない。そのような空しさと忙しさの中にいたレビに、イエス様は私についてきなさいと声をかけられました。
2)なぜ、彼らと食事をするのか。
・食事を一緒にすることは隣人であることの表れです。
・レビが食事会を主催した目的は、イエス様を紹介するためだったのでしょうか。それとも隣人であり続けるためだったのでしょうか。両者を明確に切り離すことはできませんが、しかし伝道を上位の目的とするなら、隣人を愛しづらくなってしまうことがあります。相手が福音を受け入れるかどうかにかかってしまうからです。
3)新しい世界を生かされている私たち
・イエス様は「今日この聖書のことばが実現しました(ルカ 4:21)」と宣言して公生涯を始められ、私たちの罪のために十字架にかけられ、しかし父なる神はイエス様をよみがえらせてくださいました。
・私たちはその宣言がなされた世界を今日も生きています。だから私たちは、「健康な人」にも「病気の人」に対しても、私たちは隣人となることができます。隣人であることそのものが、恵みがすぐそばに来ていることの宣言となるからです。彼らが自分が病人(罪人)であると気がついた時、イエス様の弟子である私たちが隣人としてそばにいることができますように。その時が神のタイミングで来ることを委ねて、今この時、今日も彼らを愛していきましょう。
結)教会で食べたり飲んだりする理由
・私たちの隣人になってくださったイエス様は「わたしについてきなさいと今日も招いておられます。私たちは今週、誰の隣人として歩みますか?