• 新しくされる!
    2023/08/21

    コリント人への手紙第二5章17節

    「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

     今月初めに沖縄にやって来た台風6号によって、ベランダに置いてあった私たちの家の古い物置が壊れてしまいました。物置の中には、古いアルバムや子どもたちが小さかった頃に書いた絵やノートなどがあり、その一部が水浸しになってしまいました。大切にとっておいたものが一部修復不可能になってしまったことは大変残念でしたが、誰もケガすることなく守られたことは大変感謝なことでした。

     日本では地震や台風や豪雨による自然災害がつきものですが、先日はハワイのマウイ島で大規模な火事が発生し、カナダでは現在も山火事が起きていて懸命な消火活動が続けられています。そのような災害が起こる度に、そこの住民が大切にしてきた家や車などがなくなってしまい、私たちは心が痛みます。被災された方々が一日も早く生活を建て直し、日常を取り戻すことができるようにとお祈りいたします。 

     このようなニュースを見聞きして思うことは、私たちが手にしている物や財産はすべて一時的なものに過ぎないことです。事実として、仮に自然災害に遭わなかったとしても、形あるものは必ず消え失せてしまうのです。過去に多くの文明が興っては一時的に栄華を極め、圧倒的な政治力や軍事力で世界を席巻しましたが、すべて衰退し歴史の中に埋もれて行きました。すべてのものは古くなり、この世界からなくなってしまいます。

     しかし聖書によれば、古くならず、新しくされるものがあるというのです。それはキリストにある命です。形あるものはすべて古くなって消えていくわけですが、それは人間も同様ですね。私たちは日々年を重ね、からだの機能は徐々に低下し、死に近づいていきます。しかし、今日の御言葉には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」とあります。イエス・キリストと出会い、イエスが主であり救い主であることを心に受け入れたならば、その人は新しくされるというのです。顔かたちが変わるわけではありません。しかしその人の魂と霊はまったく作り変えられているのです。私たちの生まれながらに持っている人格は、罪によって滅びゆく運命にあります。しかし、イエスキリストが十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、私たちの罪の代価をすべて支払ってくださいました。私たちはイエスを信じ受け入れることで、罪の赦しを確かなものとし、全く新しくされた魂と霊によって生きるのです。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と書かれているとおりです。この新しいいのちは永遠の命です。もはや古くなることも、消失してしまうこともなく、やがて私たちがいただく復活のからだと一つとなり永遠に続くものです。

     私たちはやがて古びてなくなってしまうものに心を奪われ、それらに大切な人生を委ねるべきではありません。それらは地上での私たちの生活を一時的に豊かにしますが、やがて消え失せるのです。何一つ天国に持って行けません。いつまでもなくなることのない、最高に価値のあるものに心を向けましょう。イエスを受け入れて全く新しいいのちをいただき、永遠に向かって歩み続けましょう。

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  • 報いを受けるための裁きとは?
    2023/08/18

    コリント人への手紙第二5章10節

    「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」

     今月、小禄バプテスト教会の日曜礼拝では、神の裁きということについて御言葉から学んでいます。裁きという言葉はイメージ的になんとなく怖い感じがあるかもしれません。自分が裁かれるということに対して嬉しいとか、待ち遠しいとかの感情は普通持たないのではないでしょうか。しかし、聖書は創世記から黙示録に至るまで、裁きについて繰り返し語っています。あまり触れたくないテーマだからといって、真理をぼやかすというようなことがないように気をつけたいものです。

     今日の御言葉は、パウロが明確に私たちが受ける裁きについて語っている個所です。幾つかのポイントがありますので、一つ一つ見てみましょう。まず、私たちが行ったことは善であれ悪であれ、すべて裁きの対象になるということです。普通は悪いことが裁きの対象になると考えがちですが、実は良いことも裁きの対象になるのです。このことから神の裁きの一つの性格が分かります。つまり裁きというのは、私たちに対する神の評価の側面があるということです。二つ目に、報いを受けるために裁かれるということです。この報いというのは報酬とも言い換えることができます。報酬は罰則とは真逆のもので、良いことに対する評価として与えられるものです。終末における神の裁きは、私たちを懲らしめたり刑罰を与えるだけでなく、ご自身の無尽蔵の富の中から私たちに贈り物を下さる時でもあるのです。イエスはマタイの福音書25章の中で、主人が遠い町に出かけている間、預かったお金で商売をして富を増やした僕に対し、「よくやった。忠実な良い僕だ。」とその労をねぎらい、報酬を与えるというたとえ話をしました。これはまさに神の裁きについての描写なのです。3番目に、私たちが立つべき裁きは、キリストの裁きの座であるということです。裁かれる方はキリストです。最初に「私たちはみな」とあるように、一人の例外もなく全員がキリストの裁きの前に立つことになります。先ほどのマタイ25章のたとえ話で、主人が僕たち一人一人に、何をしたかを丁寧にチェックしたように、イエスは私たち一人一人が地上にいる間なしたすべてのことをチェックされるのです。

     ところで、今日の個所では私たちは「肉体においてした行いに応じて」裁かれるとあります。これは私たちが恵みにより、信仰によって救われるとするキリスト教の最も大切な教えと矛盾していると感じる人もいるかもしれません。確かに私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではありません。実は、今日の御言葉は、神はすべての人を裁かれると言っていますが、すべてを救われるとは言っていません。救われるか救われないかは信仰によりますが、裁きの基準には行いも関係してくるのです。そしてやがてイエスが来られるときに私たちがいただく報いは、私たちが信仰を用いてどれだけ神のために正しい行いを行ったかによって決まるのです。本当にイエスを心から信じイエスに従うことを願っているなら、それは行いに現れるはずです。イエスはそれを私たちに期待しておられます。天においてイエスと共に報いを喜ぶことができるように、今という時を用いていきましょう。

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  • 目に見えないものこそ大切に
    2023/08/16

    コリント人への手紙第二4章17-18節

    「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

     この世界には目に見えないけれど存在しているものがたくさんあります。むしろ科学的に言えば、私たちの肉眼で観察できるものは全体のごく一部に過ぎません。というのも、私たちの目が感知できる光は可視光線と呼ばれるごくわずかな範囲の波長の光だけです。それより長い波長の光や短い波長の光は、肉眼では捉えることができないのです。ですので、自分の目で見えるものしか信じられないという人がいれば、その人は宗教がどうこうという前に、科学を知らない人ということができるでしょう。目で見えるか見えないかは、この宇宙の中で起きている数多くの現象の中では、全く意味をなさない議論なのです。

     今日の御言葉は、時空を超えた視点で物事を捉えているという点で、とても科学的です。私たちはクリスチャンであるなしに関わらず、苦しみを経験します。苦しみのただ中にいる時は、その苦しみが永遠に続くかのように感じられるときがあります。あまりにも辛すぎて早く過ぎ去ってほしいと心から願います。愛なる神はもちろん私たちを苦難から解放することがおできになりますが、その苦難からの解放ということ以上に大切な真理を私たちに教えておられます。それは、私たちが経験する苦難はほんのひと時に過ぎず、やがて私たちが経験することになる神の栄光と比べると実に軽いものだということです。この苦しみはいったいいつまで続くのかと思うようなものでも、永遠に比べればほんの一瞬に過ぎないのです。これが神の視点です。

     もう一つの大切なことは、目に見えるものではなく見えないものにこそ私たちは目を留めるべきであるということです。先ほど目に見えないものがいかに多いかという話をしましたが、実際本当に大切なことの多くは目で見ることができません。聖書にはいつまでも残るものは信仰と希望と愛であると書かれていますが、この3つはすべて目に見えないものです。ところが、私たちはあまりにも目に見えるものに心を奪われ、そのようなものに無駄な時間や労力を費やしています。また自分が人の目にどう映るのかということをあまりにも気にし過ぎています。どんなにアンチエイジングを頑張ったところで、私たちの肉体は日々衰えていくだけです。私たちが本当に心を向けるべきは、目に見えないものであり、永遠なるものです。今日の御言葉に「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」とある通りです。あなたは何に人生を掛けていますか。何に最も自分のエネルギーを注いでいますか。それはやがて消え失せてしまうものですか。それとも永遠に続くものですか。

     神は私たちにイエス・キリストを通して永遠の命を与えておられます。2000年前にゴルゴタの丘の上で私たちの罪を赦すために十字架に掛かられ、死んで墓に葬られ、3日目によみがえられたこのイエスを心から信じる者は誰でも永遠の命を得ることができるのです。

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  • 土の器に入った神の栄光
    2023/08/14

    コリント人への手紙第二4章6-7節

    「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」

     聖書によれば、人間は他の動物たちと違って神が土のちりから形作られました。さらに人間には他の動物にはない特徴が二つあります。一つは神の形に似せて作られたということ、もう一つは、神の息が吹き込まれたということです。神のかたちに似せて造られたということは、物理的な姿かたちのことではなく、精神的、道徳的、社会的に神のような一面を持ち、神の栄光を表すものとされたということです。また、神の息が吹き込まれたということは、人が神を意識し、神と交わり、神を礼拝するものとされたということです。このようにして、人は他の動物とは異なった存在として、神が特別に創造されたわけですから、人の命の価値を他の生物と同等に見なすべきではありません。もちろん、地球上のあらゆる生物は等しく神の創造によるものであり、愛すべき、保護すべきものですが、命の価値という点で差があるのです。しかし、残念なことに人は罪を犯したために神の栄光を受けられなってしまいました。

     今日の第二コリントの御言葉によれば、私たちの創造主は、キリストを通して私たちの心を再び神の栄光に輝かせてくださいました。つまり、神の栄光に満ちたキリストを知ることによって、私たちの心にも光が輝くということです。神は「光あれ」と言われて闇の中に光を創造されましたが、まさに私たちの心が闇のようであっても、神の栄光が光り輝くのです。罪によって、神のかたちが歪められ霊的に目が閉ざされてしまった私たちですが、キリストを通して、本来の姿を回復することができるのです。

     7節にはとても素敵な聖句が書かれています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」と言うのです。この宝というのは、一言で言えば神の栄光です。他の生物には見られない、人間だけに与えられた神からのプレゼントです。普通大切なプレゼントは、それにふさわしい入れ物に入れておきます。宝石であれば、その宝石に見合った高級な宝箱に保管するでしょう。しかし、神からのプレゼントは金や銀の器ではなく、土の器に入れているというのです。土の器は地味で決してきらびやかではありません。また欠けたり、傷ついたりしやすいものです。価値あるプレゼントを入れておくには相応しいとは言えません。事実私たちは、傷つきやすく、もろく、いろんな意味で欠けだらけです。しかし、そんな私たちを、神はありのままで愛して下さり、私たちを用いてくださるのです。土の器のような私たちを神の栄光を輝かせる価値あるものと見なしてくださるのです。パウロはさらに「それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」と書きました。私たちがおごり高ぶることなく、ただ神だけを見上げ、神に栄光をお返しするために、私たちは土の器のままで生かされているのです。欠けていても、傷があっても私たちの価値は変わりません。キリストを通して価値あるものとされていることを喜び、今日も神に栄光をお返ししましょう。

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  • 必ず変えられます!
    2023/08/11

    コリント人への手紙第二3章18節

    「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

     昨日まで2泊3日の中高生キャンプにスタッフとして参加をしていました。私はシャイで人前で喋るのがあまり得意じゃない中学校1年生と2年生のクラスを担当しました。最初は私の問いかけにもほとんど答えてくれなかった子どもたちも、緊張がほどけたのか、最後にはだいぶ表情も和らぎ、キャンプファイヤーの時に自発的に証しをしてくれた子もいました。

     今回のように宿泊を伴うキャンプは実に4年ぶりのことでしたが、参加するたびに子どもたちが変えられていく姿にスタッフが一番励まされます。短い期間ですが、講師の先生やグループタイムの時に聖書の言葉をじっくりと学び、同世代の仲間と楽しく交わる中で、神の愛に触れ、励まされ、自分の価値に気付かされてゆくのです。

     実は私も中高生の頃は引っ込み思案で内気で、人前で喋ることが大の苦手でした。マイクを持たされると完全に頭の中が真っ白になり言葉がまったく出てこないような子でした。人前で堂々と上手にお話ができる子を見るととてもうらやましいと思いました。今の私しか知らない人にこの話をすると、ほとんどの人が「冗談ですよね。」とびっくりされます。でも私は神さまに変えられたのです。そして最初から何でもできて、物おじせず誰とでもお話しできるキャラクターじゃなかったこと、そのことの中にも神さまのご計画の中にあったと信じることができます。今回のようなキャンプで、シャイな子どもたちと向き合う時、「先生もね、そうだったんだよ。でも、神さまが先生を変えてくださったんだよ。今では毎週説教している。神さまは人を変える力があるんだよ。」と自分の経験から分かち合うことができ、励ますことができます。

     今日の御言葉には、「私たちは変えられていく」と書かれています。しかも普通の変えられ方ではありません。第一番目に「主の栄光を映しつつ変えられる」ということです。主の栄光とはとてつもない栄光です。聖書にはたびたび神の栄光が照らし出されるという表現がありますが、そのとき人はあまりにもその栄光が神々しいために直視することができなくなります。イエスを信じる者は、イエスの愛を受けてその人自身が鏡のようにイエスを映し出すようになるのです。第2番目に、「イエスと同じ姿に変えられていく」とあります。私たちがイエスと同じ姿になるというのはあまりにも恐れ多いと思うかもしれません。もちろんイエスと同化するのではありません。しかし、イエスを信頼し、イエスに従うことを願う者は、自然にイエスと同じ性質を帯びるようになるのです。第三番目に栄光から栄光へと変えられます。これは最終的に私たちが天に召される時、実現する栄化という変化を指します。私たちが生きている間に起こる変化は、肉体的な制約や罪の性質があって完全ではありません。しかし、その制約から解き放たれた時、私たちは完全に変えられます。これらの変化は私たち自身の努力ではなく、聖霊なる神の働きによります。どんな人でもイエスへの信仰により、聖霊の力によって変えられます。誰でもです。私も変えられました。あなたも変えられます。イエスを心から喜び信頼し、期待しましょう。

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  • 文字は殺し御霊は生かす
    2023/08/07

    コリント人への手紙第二3章6節

    「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字(もんじ)に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字(もんじ)は殺し、御霊は生かすからです。」

     聖書は旧約聖書と新約聖書の二つに分かれていますが、旧約や新約の約は「契約」の約という意味です。ですので、旧約は古い契約、新約は新しい契約です。旧約は神がご自身の民として選ばれたイスラエル民族との間に交わした契約ですが、それを土台として、イエスキリストを通して全人類との間に新しい契約を交わされました。古い契約を支えているのは律法です。律法はモーセの十戒を中心として613の戒めからなり、どのようにして神に仕えなければならないか、そしてイスラエルが信仰共同体として生きるために何が必要なのかが細かく規定されています。

     パウロは元々この律法をがちがちに守り実践するパリサイ派のユダヤ教徒でした。彼にとっては律法を守る事こそが神に仕えることであり、それを新しい教えで上書きしてしまったイエス・キリストはとんでもない異端者でした。そうしてパウロはキリスト教を撲滅するために息巻いて迫害に迫害を重ねていたのですが、ある時彼自身がイエスと衝撃的な出会いを経験し、ものの見事にクリスチャンになってしまうのです。かくして彼はキリスト教史上最大の伝道者となり、福音を世界中に広めました。

     このようなパウロだからこそ、もはや私たちは律法ではなく、イエス・キリストを通して救われるとする新しい契約の教えが説得力を持って私たちに迫ってきます。今日の御言葉に、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」とあります。この新しい契約は、イエス・キリストによって与えられた福音ですね。私たちは信仰によってこの新しい契約の中に入れられたのです。そしてパウロは「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です」と語り、神が与えられた新しい契約に仕える者となる資格は、文字にではなく、御霊に仕える者となる資格なのだと説明します。ここで文字というのは律法のことです。律法は文字として記され民に読まれてきたのです。しかし、律法は不完全でした。律法は人を救うものではありませんでした。結局のところ、律法を完全に守ることができる人など一人もいなかったからです。イエスが来られ新しい契約にアップデートされてようやく完全なものとなったのです。それ以来、人はもはや文字に仕える必要はなくなり、イエスを受け入れた時に与えられる御霊に仕える者となったのです。

     パウロは「文字(もんじ)は殺し、御霊は生かすからです」と語り、律法と福音の決定的な違いを述べています。律法は人を罪に定めます。人を縛ります。しかしイエスが私たちを律法の呪縛から解き放ってくださいました。イエスが与える御霊は信じる者に自由を与え、人を解放します。クリスチャンは御霊の導きに従って生きています。御霊に満たされた生活は人をより豊かに、より自由に、より喜びに溢れさせます。あなたには自由がありますか。喜びがありますか。イエスを心に信じ受け入れている人は、どんな困難な中にあっても自由と喜びと解放を得ることができます。あなたも是非、このお方と共に生き、御霊の力をいただいてください。

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  • 罪の指摘は愛を持って
    2023/08/04

    コリント人への手紙第二2章4節

    「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。」

     一昨日の台風によって家のベランダに置いてあった物置が壊れ、中にあったたくさんの古い思い出の品々が飛ばされて水没してしまいました。停電も重なる中で、今日明日に再びやって来る大風に備えて何とか応急措置をしました。このような中で命が守られたことを神さまに感謝いたします。

     今日の第二コリント2章4節には、パウロが大きな苦しみを持って、涙ながらに手紙を書いたことが記されています。この手紙は第一コリントのことではなく、恐らく今は失われている別の手紙があったというのが大方の聖書学者の見解です。それは2章で記されている内容と第一コリントの内容が合致しないからです。パウロは前に書いた手紙で、ある人の罪を恐らく名指しで指摘し、悔い改めを迫ったものと思われます。その人はパウロに大きな悲しみを与えただけでなく、コリント教会全体に悲しみを与えました。そして恐らく、現在では教会戒規と呼ばれる、大きな罪を犯した教会員に対してなされる処分をコリント教会が発動させ、その人を教会から排除したものと思われます。このような教会戒規がなされる時、教会は大きな傷を受けます。これまで神の家族として共に交わり歩んできた仲間を、本人の罪の故とはいえ、交わりから絶たなければならないのです。しかし、結果的にその苦渋の決断は功を奏し、後に排除されたその人は自らの過ちを認め、悔い改めたものと思われます。それで、パウロは7節でその人を赦し、慰めるようにと伝えています。

     このような背景を元にこの2章は書かれています。今日の4節には、パウロが前に書いた手紙は教会を悲しませるためではなく、自分がどんなに教会を愛しているかを知ってもらうためだったという真の目的について記しています。パウロが手紙を書くとき、それは一時の感情に任せた殴り書きのようなものではありません。書く内容を熟慮し、愛と祈り心を持って書き送るのです。だからと言って、お茶を濁すようなあいまいな書き方をせず、意図が伝わるようにストレートに過ちを指摘します。この絶妙なバランスは、すべてのクリスチャンが学ぶべきことです。過ちや罪はほっておくべきものではありません。それは病気を放置するようなものです。やがて教会全体を蝕むことになり兼ねません。罪の指摘は教会の秩序と清さを保ち、神に対する畏れを共有するものです。イエスご自身がマタイ18章で、罪を犯した兄弟に対してどのように指摘すべきかを教えておられます。これは決して裁きではなく、愛の行いです。同時に忘れてはならないことは、私たちはみな同じ過ちを犯してしまう弱さがあるということです。私たちは等しく罪びとです。罪びとゆえに、他者を指摘する前に自分自身のあり方が問われます。イエスキリストの十字架の赦しなしには、私たちはだれ一人神の前に立つことなどできないのです。自分自身の信仰と行いを振り返りながら、教会が真に清められるように祈っていきましょう。サタンの巧妙な罠に陥ることがないように、すべてを愛と信仰をもって行いましょう。

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  • 【台風6号最接近中】執り成しの祈りのパワー
    2023/08/01

    コリント人への手紙第二1章11節

    「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。」

     この雨風の音が聞こえますでしょうか。台風6号の再接近中に録音をしています。ちょうど部屋の窓が南に面しているため、南からの強烈な暴風が窓を打ち付けていて、振動も感じるほどです。小禄教会の対策は抜かりがなかったか心配なのですが、祈りつつメッセージをお届けいたします。

     今日の第二コリントの聖句は、私たちが他者のために祈る「執り成しの祈り」と呼ばれる祈りについて二つの大切な要素を教えています。まず、「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。」と書いています。パウロはこの手紙の読み手であるコリント教会に対して、自分のために祈ってほしいとリクエストをしています。「祈りによって協力してほしい」という表現がとても素敵だと思いませんか。実はパウロはこの聖句の前に、自分が経験してきた数々の困難について分かち合っています。文字通り霊的な暴風を何度も経験したパウロにとって、他のクリスチャンに祈ってもらう事ほど必要な協力はなかったでしょう。するとどうなるでしょうか。「神は私たちを救い出してくださいます」という言葉に表されているように、クリスチャンの真摯な祈りは神に届けられ、神はそれを聞いてくださり、祈りに答えてくださるのです。執り成しの祈りは祈られる人を救うのです。

     次に、「そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです」という執り成しの祈りの二つ目の側面に触れています。これは祈ったことが神に聞き届けられることにより、祈った人たちもまた恵みを受け、感謝を捧げることができるというのです。「情けは人の為ならず」と言う言葉があります。これは他者に示した恩はいずれ自分に返って来るという意味ですが、執り成しの祈りの祝福も同じように自分に返って来るのです。

     私たち家族がネパールに住んでいた2006年3月に、当時5歳だった私の次男がバイクにひかれて頭蓋骨を骨折する大けがをし、病院に緊急搬送されたことがありました。集会に行く準備をしてた私と妻は急いで病院に駆けつけました。目の前で起きていることが現実とは思えないような感覚の中、ただただ祈りながら病院の医師が施す治療を見守るしかありませんでした。そんな中、この事故のことを聞きつけた教会の人たちがすぐに執り成しの祈りの輪を作り、病院内外で祈りを捧げてくださいました。手術は無事終わり、次男は周りも驚くほど早く回復し、4日後には退院ができました。それまでずうっと病院で付き添っていた私が自宅に戻ってパソコンを開けると、本当に驚きました。なんと世界中から祈りのメールが何百通と届いていたのです。ネパールの教会の牧師が世界中のバプテスト教会に祈りの要請をしていたのです。あの時の感動を今でも忘れることはできません。執り成しの祈りの力と、それを聞いてくださる確かな神の守りをあれほど強く感じたことはありませんでした。私たちの祈りは無駄ではありません。神は祈りに答えられ、私たちを試練の中から助けてくださいます。

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