• 第500話『自分にyes!と言う』-【軽井沢にゆかりのある作家篇】ジョン・レノン-
    2025/03/29
    軽井沢をこよなく愛した、伝説のアーティストがいます。
    ジョン・レノン。
    ジョンは、亡くなる3年前から、毎年、軽井沢を訪れました。
    オノ・ヨーコの別荘近くにある、万平ホテルが定宿。
    ヨーコと、まだ2歳の息子・ショーン、3人の仲睦まじい姿は、旧軽銀座、鬼押し出し、白糸の滝など、各地で目撃され、写真にも残っています。
    早くから避暑地として、多くの重鎮、外国人を迎え入れてきたこの地は、いい意味で、ジョンを放っておいてくれました。
    過度に騒がず、干渉せず。
    ビートルズ時代から、マスコミにさらされ、想像を絶する心ない言葉を浴びせられてきた彼にとって、軽井沢は、唯一、ホッとできる場所だったのかもしれません。
    さらに、信州の涼やかで少し湿った風は、ふるさとリバプール、ストロベリー・フィールズを想起させたのでしょう。
    写真に写るジョンは、どれも、リラックスしていて、素の表情を隠していません。

    ジョン・レノンという唯一無二の芸術家の人生は、ある意味、自分にyesと言うための闘いの歴史でもありました。
    多大な賞賛、歓声や評価を受けても、彼自身、自分を肯定することは困難な道のりでした。
    1973年にリリースされた名曲『マインド・ゲームス』に、こんな歌詞があります。
    「Love is the answer」そして「Yes is the answer」。
    愛こそが人生の答えであり、自分にyesということこそが、全ての答え。
    さらに歌詞には、こんな一節もあります。
    「yesというのは、あるがままの自分に全てをゆだねること」
    自ら産み出す音楽で世界を変えたレジェンド、ジョン・レノンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第499話『何度でも立ち上がる』-【軽井沢にゆかりのある作家篇】横溝正史-
    2025/03/22
    晩年、軽井沢を舞台にした本格探偵小説を書いた、ミステリーの巨匠がいます。
    横溝正史(よこみぞ・せいし)。
    横溝を一躍有名にしたのは、金田一耕助が事件を解決する、『本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』。
    多くの作品がテレビドラマ化、映画化されました。
    特に彼の名を全国に広めたのが、『犬神家の一族』です。
    横溝が48歳のとき、雑誌に連載をスタートさせたこの小説は、日本古来の因習、家督争いをベースに、湖から飛び出した2本の足など、ショッキングなシーンが描かれ、大きな話題になりました。
    名監督、市川崑が、二度も映画化。
    興行収入で成果を上げるだけではなく、作品としても数々の賞を受賞しました。
    この小説での成功を受け、横溝は軽井沢に別荘を購入。
    夏の間は、信州の涼やかな風に吹かれながら、執筆に励みました。
    彼が10年もの歳月をかけて完成させた『仮面舞踏会』は、晩年の傑作。
    避暑地・軽井沢で起きた殺人事件に、金田一耕助が挑む物語です。

    ミステリー小説、推理小説、捕物帳、大衆小説からジュブナイルまで、多彩なジャンルを書き分けた横溝ですが、最も好んだ肩書きは「探偵小説家」でした。
    5歳で母を亡くした彼は、臆病で人見知り。
    父の再婚相手には、血のつながらない兄弟が多くいて、孤独な思いが募ります。
    そんな中、彼の心の支えは、国内外の探偵小説を読むことだけだったのです。
    さらに彼を襲った病魔、結核。
    病気のせいで、思うように執筆できない辛さも味わいました。
    江戸川乱歩に認められ、デビューを果たすも、ヒット作は続かない。
    一時は忘れられた存在になったのですが、1970年代、角川春樹のプロデュースで、時のひとに返り咲きました。
    なぜ横溝は、何度も不死鳥のように蘇ることができたのでしょうか。
    今も多くのファンを魅了する探偵小説家、横溝正史が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第498話『容易な道を選んではならぬ』-【軽井沢にゆかりのある作家篇】有島武郎-
    2025/03/15
    軽井沢にあった父親の別荘『浄月庵』で心中をはかった文豪がいます。
    有島武郎(ありしま・たけお)。
    『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』『一房の葡萄』など、今も読み継がれる傑作を世に送り出した作家の、あまりにセンセーショナルな心中事件は、新聞で大きく取り上げられました。
    相手の女性は、波多野秋子(はたの・あきこ)。
    雑誌『婦人公論』の記者でした。
    有島は妻亡きあと、ずっと独身を通していましたが、波多野には夫と3人の子がありました。
    享年、有島45歳。秋子30歳。
    亡くなったとされる6月8日、有島にある決断が迫っていました。
    秋子の夫から、不義を訴えられていたのです。
    高額な慰謝料を払うか、姦通罪で監獄に入るか。
    一説には、秋子の夫が、ブルジョアで流行作家だった有島に対し、金をとれるだけとろうと脅していた、と言われています。
    有島は、そのどちらの選択も捨て、秋子と軽井沢行きの汽車に乗ったのです。
    有島武郎にとって、由緒正しい有島家の長男に生まれたことは、想像を絶する重荷でした。
    気が弱く、自己主張のできない武郎にとって、泰然自若な父は、大きな壁、決して越えられない山のような存在だったのです。
    小説家としての才能を認められながら、彼が作家一本で世にうって出られなかったのは、有島家の呪縛に勝てなかったから。

    人生が大きく動いたのは、38歳のときです。
    妻を亡くし、父もまた、病で亡くします。
    このとき初めて、文豪・有島武郎が誕生したのかもしれません。
    彼の行きついた最期はともかく、彼が書いた優れた小説を裏打ちするのは、安易な道を選ばないという矜持でした。
    今、自分が置かれている状況で、最もつらい道を選択する。
    それは、多くの血や汗をともないます。
    ですが、それを選ばなければ、この世に生まれて来た本来の仕事ができない、そう思うのなら、あえて、茨の道を進むしかないのです。
    自ら地獄に飛び込んだ、大正時代の文豪、有島武郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第497話『褒められたいと願う』-【軽井沢にゆかりのある作家篇】芥川龍之介-
    2025/03/08
    「軽井沢 つるや旅館」で、病める心を癒した作家がいます。
    芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)。
    大正時代を代表する文豪です。
    わずか35年の生涯で、『羅生門』『杜子春』『蜘蛛の糸』など、いまなお読み継がれる名作を世に送り出しました。
    その作品は、海外にも多数紹介され、幻想小説家のボルヘスは、スペイン語に翻訳された『河童』を読み、これこそ文学世界の新しい空間を切り開いた傑作! ノーベル文学賞に値すると、大絶賛しました。

    芥川が、信州・軽井沢を訪れたのは、たったの2回だけ。
    亡くなる数年前の、夏のことでした。
    当時、軽井沢は、文豪たちが執筆のため、夏の暑さを逃れる、格好の別荘地。
    芥川も、3つ年上の親友、室生犀星(むろう・さいせい)の勧めに応じて、この避暑地にやってきたのです。
    ただ、彼が軽井沢を訪れたとき、心のコンディションは、決してよくありませんでした。

    24歳のとき、『鼻』という短編小説で、夏目漱石から多大な評価を受け、颯爽と文壇デビューを果たした芥川は、絶えず、己の才能の枯渇を恐れていました。
    さらに彼を追い詰めたのが、日本文壇に台頭してきた、プロレタリア文学。
    1923年の関東大震災など、大きな災害や広がる貧富の差が、その流れを後押ししました。
    反体制側から、芥川や夏目漱石の文学は、ブルジョワジー、世の中を高みから見物する余裕派、高踏派と、揶揄されたのです。
    非難の最たるものは、芥川の作品を「芸術のための芸術」と決めつけたもの。
    でも、芥川ほど、日常の何気ない機微や、知人友人たちとの素朴なふれあいを愛した作家は、いなかったのです。
    周囲の評判と自分の思いの齟齬に疲れた彼は、心身を病み、逃げるように軽井沢の地を踏んだのです。
    軽井沢の優しく清らかな風は、彼に何を教えてくれたのでしょうか。
    短編小説の神様として世界にその名をとどろかす、日本文壇のレジェンド、芥川龍之介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第496話『自分を冷たく突き放す』-【軽井沢にゆかりのある作家篇】池波正太郎-
    2025/03/01
    軽井沢、「万平ホテル」を愛した、時代小説家のレジェンドがいます。
    池波正太郎(いけなみ・しょうたろう)。
    戦後の日本を代表する、時代小説、歴史小説の書き手であるだけでなく、味わい深く示唆に富んだエッセイでも有名です。
    三大シリーズと呼ばれる、『剣客商売』『鬼平犯科帳』、そして『仕掛人・藤枝梅安』は、今も多くのファンに読み継がれ、何度も映像化されています。

    池波が初めて軽井沢を訪れたのは、彼がまだ10代の頃でした。
    小学校を出ると、家計を助けるため、すぐに仕事につき、13歳のときには、株式仲買店で働きながら、小説を書いていた池波。
    友人と二人で行った夏の軽井沢は、ある意味、後の作家人生の伏線になるような、思い出深い旅になりました。
    南アルプスで遊び、八ヶ岳山麓をめぐり、星野温泉に宿泊。
    当時の軽井沢は、街並みに、江戸の宿場町の風情を残していました。
    晩夏の街道に人影はなく、いかにも長脇差を腰に、さんど笠を被った「沓掛時次郎(くつかけ・ときじろう)」が歩いてくるようだったと、エッセイ『よい匂いのする一夜』に書いています。
    『沓掛時次郎』とは、「股旅物」を世に広めた大家、長谷川伸(はせがわ・しん)の大人気戯曲。
    そのときの池波は、のちに、自分が長谷川伸に弟子入りするとは、思いもしなかったことでしょう。
    さらに、沓掛とは、江戸から数えて19番目の宿場で、そこは、現在の中軽井沢に位置します。
    軽井沢は、池波の作家人生を支える、大切な場所になりました。
    別荘を持たなかった池波ですが、特に軽井沢の「万平ホテル」は、彼にとって大きな存在でした。
    10代で初めて「万平ホテル」に泊まったとき、年齢を偽って21歳としても、ホテルのひとは問いただすことはありません。
    一人前の大人として扱ってもらったこと。
    そのときの喜びと身が引き締まるような思いを、生涯、忘れませんでした。

    池波は、師匠、長谷川伸に、いくつかの言葉をもらいますが、特に忘れられないものに、この言葉をあげています。
    「絶えず自分を冷たく突き放して見つめることを忘れるな」
    人情やユーモアを大切にして、常に弱い者の視点を貫いた池波の、根幹。
    そこには、冷静に、己の生き様を見つめる眼がありました。
    67年の生涯を「書くこと」に捧げた文豪・池波正太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第495話『逆境に負けない』-【福岡県にゆかりのあるレジェンド篇】作曲家 古賀政男-
    2025/02/22
    福岡県に生まれた、昭和を代表する作曲家・ギタリストがいます。
    古賀政男(こが・まさお)。
    作曲した楽曲は、5000曲とも言われ、『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』や『東京ラプソディ』など、独特の曲調、旋律はリスペクトを込めて、『古賀メロディ』と呼ばれています。
    古賀は、昭和13年から東京、代々木上原に移り住み、その地を音楽村にしようという構想を持っていました。
    現在、その遺志は「古賀政男音楽博物館」として結実。
    大衆音楽の伝統を守り続けています。
    この博物館にはホールもあり、古賀の自宅から一部移築した書斎や日本間が展示されている他、1000曲にも及ぶ彼の楽曲を視聴できるコーナーもあります。
    作曲家として大成功を収めた古賀ですが、実は、その人生は苦難の連続でした。
    幼い頃、父を亡くし、故郷を追われて朝鮮に渡ったこと。
    貧しさや強い喪失感は、後に発表した楽曲に影響を与えています。
    さらに、有名になってからも苦労は絶えませんでした。
    特に古賀を苦しめたのは、誹謗中傷。
    日本図書センター刊『古賀政男 歌はわが友わが心』には、そのときの思いが綴られています。

    …心ない批評にたいして、血の気の多い頃の私は、ほんとうに腹がたった。
    作品がヒットしても、「なに、あれはマスコミの力さ」と、こともなげに言い放つ人々もいた。
    しかし、私は一言も反論や弁解をせずにじっと耐えてきた。

    古賀がイチバンに信じたのは、彼が作曲した曲を口ずさんでくれる一般大衆でした。
    毎日、汗水たらして働き、嫌な思い、辛い思いをかみしめ、ささやかな幸せを大切にして生きているひとたちに、届く歌。
    彼は、歌の力を信じていたのです。
    常に聴くひとの心に寄り添い続けたレジェンド・古賀政男が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第494話『失意の日々を、希望に変える』-【福岡県にゆかりのあるレジェンド篇】儒学者・本草学者 貝原益軒-
    2025/02/15
    江戸時代の福岡藩士、儒学者で本草学者の賢人がいます。
    貝原益軒(かいばら・えきけん)。
    本草学とは、薬草だけにとどまらず、自然界にあるもの全てが対象。
    病の効能に役立つものを扱う学問です。
    貝原は、さらに本草学だけではなく、当時まだ広く知られていなかった「健康」という概念を哲学的に説き、人生論にまで高めました。
    江戸時代、平均寿命が50歳と言われていましたが、彼は84歳まで生き、82歳の時に書いた『養生訓』には、現代に生きる我々にも当てはまる、心と体の健康術が記されています。
    貝原は言いました。
    「体が健康だと、とかく無茶をする。
    睡眠時間を削り、暴飲暴食、体を気遣うことは後回し。
    病気になってから急に養生しだすが、時すでに遅し。
    それはまるで、お金がなくなって貧乏になってから節約を始めるのに似ている。
    お金があるうちから、抑えるところは抑え、節制に励めば、貧乏にならずに済むものを…」

    貝原の銅像は、福岡市中央区の金龍寺にあります。
    その銅像は、正座して机に向かっています。
    彼は生涯、努力のひとでした。
    書物を読み、調べる。
    そしてその一方で、全国を歩き回り、現地におもむくことを大切にしていました。
    貝原は、最晩年になって、執筆に勤しみ、多くの著作を残す偉人になりますが、若い頃は、挫折の連続でした。
    特に20歳の時に、藩主の怒りを買い、およそ7年にわたる浪人生活を余儀なくされました。
    何もできぬ失意の日々。
    でも、その7年間の過ごし方こそ、彼がのちに花開くきっかけを作ったのです。
    彼は、失意の日々を、いかにして希望の明日に変えたのでしょうか。
    日本のアリストテレスと言われるレジェンド、貝原益軒が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第493話『体験から全てが始まる』-【福岡県にゆかりのあるレジェンド篇】漫画家 松本零士-
    2025/02/08
    福岡県久留米市出身の、漫画家のレジェンドがいます。
    松本零士(まつもと・れいじ)。
    『銀河鉄道999』『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙海賊キャプテンハーロック』など、松本が描いた多くの名作漫画は、長きにわたり、アニメ化、映画化され、今もなお、世界中のファンに愛されています。
    彼の作品は、宇宙を舞台にしたSFが多く、壮大なファンタジーという印象が強いですが、実は繊細で微妙な人間の感情、裏切りや嫉妬、怖れや後悔などが、丁寧に描かれていることでも有名です。

    キャラクターづくりには、彼自身が幼いころから体験したこと、見たこと、感じたことが、色濃く反映されています。
    松本は、戦後上京するまでの多感な幼少期、青年期を、小倉で過ごしました。
    北九州市小倉北区にある、『北九州市漫画ミュージアム』は、まず等身大のハーロック像が出迎えてくれます。
    このミュージアムは、北九州にゆかりのある漫画家の作品や功績が展示されていますが、『北九州発・銀河行き~松本零士を生んだ街~』のコーナーは必見。
    松本零士のおいたちや創作の源に辿り着くことができます。
    彼が小倉から上京したときに乗った、蒸気機関車。
    そのときの、汽笛の音、煙の匂い、果てしない旅立ちへの恍惚と不安、それらの体験は全て、『銀河鉄道999』に投影されているのです。

    角川書店刊、『未来創造―夢の発想法』という著書で、松本は、こんなふうに書いています。
    「創作のためのヒントをどこから得るか?
    僕はそのすべてを『体験』から得ている。
    生まれてからいままでにこの目で直に見たもの、この耳で聞いたこと、行った場所、やったこと、出会った人々…、僕自身の体験が創作のすべての源泉になっていると言っていいだろう」
    漫画界にあらたな革命を起こした賢人、松本零士が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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