• 【短編映画】あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン
    2024/01/10
    メッセージ

    南北戦争の時代を生きたアメリカの詩人に、エミリー・ディキンソンという女性がいます。
    彼女は生涯を自然の中の家の中で白いドレスを着て過ごし、ほとんど外にでることなく、窓から差し込む光を頼りに詩作を続けました。

    わたしたちはその生き方から、自分の心の中にある壊れそうなものを現実世界の棘のようなものから守りたいという気持ちと、それでも創作を通じて現実世界と関わりたいという祈りのような気持ちの両方を感じます。

    その生き方から着想し、1つの映画と2つのドレスが生まれました。

    ディキンソンの詩を新訳したこの朗読短編映画「あなたのいない夕暮れに」。

    私達がforget me notそしてtouch me notと名付けたオートクチュールの技法をつかって作られた2つのドレス。

    現実と理想、幸と不幸が重なりあい揺れながら、世界を生きているあなたの心のよすがになりますように。


    出演

    天野さえか
    寺田ゆりか


    スタッフ

    衣装:田中美帆(May & June)
    ヘア&メイク:茂手山貴子
    撮影:帆志麻彩(yori.so gallery & label)
    音楽:横山起朗
    ジュエリー協力:Ryui
    英語字幕:天野さえか
    韓国語字幕:渡辺奈緒子
    脚本:小谷ふみ
    監督・編集:高崎健司(yori.so gallery & label)


    撮影協力


    gallery room yori.so
    シラハマ校舎
    秋谷・立石海岸
    長野県蓼科四季の森ホテル


    produced by yori.so gallery & label
    with love for Emily Dickinson

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    9 分
  • エミリー・ディキンソン「傷つく誰かの心を守れたなら」
    2022/08/11
    こんにちは。 強い日差しにカーッと照りつけられたり、急な雨にザーッと降られたり、あわただしく交互に使う日傘と雨傘を、晴雨兼用ひとつの傘にしたら、どんな空もさあ来いや、と思えるようになりました。 今月、私はまたひとつ年を取ります。半世紀近く生きても、心の中の日照りや大雨、どちらにも使える心の傘は、なかなか見つからないものですね。おかわりありませんか。 先日、数々の引越しとともに、我が家の食器棚にあり続けた、りんごの形の白いお皿を割ってしまいました。それから、あまり時間をたたず、家族が大切にしているお茶碗も......。 なかなか打ち明けることができず、お茶碗を使わずに済む、丼やカレー、麺ものなどを食卓に並べ続けましたが、2週間が限界でした。なんとか、修理したお茶碗を手に謝ることができ、「形ある ものは、いつか壊れるから」という言葉に、一瞬救われました。でも、見る度に傷跡は痛々しく、胸の内にもヒビが入ったように、ため息が漏れ出ます。 この感じは、持病が再発したり、いつもの道で大怪我をしたり、町で知らないおじさんに急に怒鳴られたり、親しくしていた人との関係が修復できなくなったり......目には見えない壊れたもの の破片で、心に傷がついた時の感覚によく似ています。 こんなことなら、ずっと使わず、棚の奥にしまっておけばよかったのか。そんなことも頭によぎります。あれがよくなったのか、これがよくなかったのかと、ぐるぐる考え、つまるところ、もう、物事に波風立たぬよう、自分の心が揺れないよう、どこにも行かず、誰にも会わず、ただじっとしていればいいのか、と。 形があるものは、いつか壊れる。形がなくても、傷つくし、元には戻せない状態になってしまうことがあります。でも、それを恐れて、ずっと棚の中に居たら、それでは生きていることにならない。物も、人も、この世界に降り立ったら、傷つきながら、壊れながら、何もせずにはいられないのだなと、半ば諦めのような、覚悟の決まらないヤセ我慢のような心境になりました。 どうにかくっついた傷を、「これは私の生きた印」なんて思えるようになるには、時間がかかります。それでも、お茶碗も、私も、まだ、がんばれそうです。 こんなこともあり、この夏は誕生日を前に、最近の私のテーマである、ちゃんと「使い切る」という意識がより強くなったように感じます。それは、エコ的な意味とはちょっと違うものです。昔から、気に入った布やシール、好みの便箋や葉書を集めては、ただ眺めるのが好きだったのですが、ある日、私がいなくなったら、これらは必要なくなったものとして処分されるのだと、せつない気持ちになりました。 ならば、自分でちゃんと使い切ろう、物がこの物であることを、まっとうさせてやろうと、真剣に、目の前の布の気持ちになったりして。 今は、彼らのベストな使われ方を考えるのが楽しいです。ミシンの登場も、手紙や葉書を出す頻度も、増えました。 同じように、私の拙い言葉を添え、あなたにおくってきた詩は、私の心が小さく集めてきたもの です。言葉が手紙の風に乗り、私のかわりに、あなたに会いに行ってくれていたわけですが、離れていても、便箋の四角い窓から同じ景色を眺めることができたなら、書いてよかったと思えそうです。 こうやって、自分が得てきたものを、何かのために手放してゆけたら、どんなにいいでしょう。おこがましい願いというのは承知で、この命もまた。 今日は、そんな切なる願いを託した詩を、おくります。 > If I can stop one heart from breaking, > I shall not live in vain; > If I can ease one life the aching, > Or cool one pain, > Or help one fainting robin > Unto his nest again, > I shall not live in vain. > > 傷つく誰かの心を 守れたなら > 生きてよかった きっとそう思える > 生きる痛みを 和らげることが できたなら > 苦しみを 癒やすことが できたなら > ぐったりした コマドリを > 巣に戻してやることが できたなら > 生きてよかった きっとそう思える ......とはいえ、私たちは、...
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    12 分
  • エミリー・ディキンソン「夜明けがいつ来てもいいように」
    2022/07/07
    こんにちは。 ひと晩で、舞台の背景セットが変わったように、雨雲が跡形もなく消え、夏の空が一気に広がりました。はしゃいで、一年ぶりにノースリーブのワンピースを着てみたら、二の腕が驚くほど太くなっていて、戸惑っています。冬の間に蓄えた脂肪が、夏の眩しすぎる光に、さらされています。 おかわりありませんか。 先日、この夏空のように、突然のお客さまを、我が家にお迎えしました。この機会を逃したら、今後、会えるか分からない。そんな奇跡的なタイミングは、ある日の夕方やって来ました。 それは、旅先から、我が家を経由して、帰路に着く計画。こちらは、予告ありの流れ星を受けとめるような、高揚感と緊張感。 でも、あと3時間で駅に着くとの連絡をもらった時、リビングには、まだしまっていない冬の暖房器具、梅雨前に洗いそびれたこたつカバー、既に登場している扇風機や風鈴、繕い途中の浴衣……ひと部屋に、春夏秋冬、全員集合している状態でした。くわえて、食材の買い出しと、食事の準備もせねばならない。 うちには、こんな時に頼りになる、小さな部屋があります。日ごろ「ゲストルーム」と呼んでいますが、ここにゲストを迎えたことは、いまだ一度もありません。 この部屋は、家族がインフルエンザになったら隔離・療養施設になり、筋トレに目覚めれば、違う自分に着替えられる魔法のクローゼットになります。そして、お客さまが来た時には、散らかったものを押し込む部屋になります。つまり、「ゲストが来た時、散らかりを隠すルーム」であるところの「ゲストルーム」なのです。 とにかく、リビングでくつろぐ四季たちを、この部屋に手際よく誘導したら、あとは、お客さまをお迎えすることに集中。おかげで、料理にも手をかけられ、ともに食卓を囲み、できる限りのおもてなしすることができました。 そして、電車を乗り継ぎ3時間以上かけてやって来た流れ星は、わずか1時間ちょっとの滞在ののち、最終の新幹線、時速300キロの風をつかまえ、帰ってゆきました。 「短い時間だったけど、いい時間を過ごしてもらえたかな」と、心地よい疲れと、余韻に浸る深夜。でも、トイレと隣り合う、ゲストルームのもうひとつの扉が全開で、中が丸見えだったことに気がついたのは、無事に帰宅したとのお礼の連絡を受けた後でした。 「会える」ということは、日ごろ、別々に流れている互いの時間が、重なること。 それは、前々からすり合わせられることもあれば、突然に互いの流れが合い出すこともあります。 「さあ、いつでもどうぞ」と、いつ誰が来ても準備万端、どこの扉が開いても大丈夫、そんな風に過ごせたら、どんなにいいだろうといつも思っています。でも実際は、なかなかそうはいきません。 今日は、いつやって来るか分からない、 出会いへのそなえを、はっと思い出させてくれる、 そんな詩を送ります。 > Not knowing when the Dawn will come > I open every Door, > Or has it Feathers, like a Bird, > Or Billows, like a Shoreー > > 夜明けが いつ来てもいいように > あらゆる扉を 開けておく > 夜明けは > 鳥のように 羽ばたいて > 浜辺のように 波よせるから 薄紫に明けてゆく空を見つめる気持ちで、会いたかった誰かを待つ。 朝焼けする胸のおく、「この自分でお迎えして大丈夫かな」、そんなちょっとした不安な気持ちも、見え隠れしながら。 そんな時のため、 散らかった気持ちを、隠してくれる、 見せないでおきたい闇を、見えなくしてくれる、 そんな駆け込み寺のような、秘密の小部屋を、 心やどこかに、持ちながら。 でも、その扉は、閉め忘れずに。 二の腕の準備が整うまでのしばしの間、 夏色のカーディガンを、羽織っておこうと思います。 また手紙を書きます。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣
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    8 分
  • エミリー・ディキンソン「蜘蛛が銀の玉 ひとつ抱きかかえ」
    2022/06/13
    こんにちは。 灰色の空が広がり、お天気ぐずつく日が増えてきました。空のご機嫌に振り回されて、体調や気分が、すっきり晴れない日も多くあります。おかわりありませんか。 先日、雨あがりの遊歩道の植え込みに、十以上の小さな蜘蛛の巣ができていました。レースのような巣には一面、小さな雨の丸いしずくがくっついて、そのひとつひとつが、日の光にキラキラ輝いていました。まるで、銀色に光る、雨後のオセロ大会のようでした。 この時期は、雨の恵みを得て、草木が育ち、虫の活動も活発になってきますね。働くアリの数も増え、花から花へ舞う蝶や、クローバーに集まる小さなハチ、そして、できれば、家の中に入って来て欲しくない虫も……その対策も、そろそろ始めなくてはいけないころです。 数年前、家族がムカデにかまれたことがありました。玄関で靴を脱ぎ、スリッパをはいた瞬間、痛みに叫び出し、こちらは何が起こったか分からず、おろおろ。その瞬間、見たことのない大きなムカデが、マッハのスピードでリビングの奥へと走り去るのが見えました。 救急センターへ電話しながら、腫れあがる足を応急処置。幸い、大事には至りませんでしたが、その後、カーテンが揺れるだけで大騒ぎするほど、取り逃した大ムカデに、しばらく怯えて過ごしました。アナフィラキシー症候群の心配もあり、今もムカデを見ると過剰に反応してしまいます。 私の住む場所は、自然が豊かなのはいいのですが、いろんな虫が家の中に入ってきます。でも、考えてみれば、私たちの方が、後から引っ越して来たわけで、彼らの場所にお邪魔しているのは、こちらの方なのでは、と思うようになりました。 それからというもの、虫のみなさんになるべく迷惑をかけぬよう、家の周りに結界を張るがごとく、自衛を心がけるようになりました。具体的には、玄関に虫の好まないハーブを植えたり、窓を開けるたび、ハッカスプレーをシュッとひと吹きしたり。心なしか、思わぬ遭遇に悲鳴をあげることが減りました。家のなかに、爽やかな香りも広がり、一石二鳥です。 ハーブやハッカに、全くおかまいなしの様子なのは、蜘蛛です。家の中、外、かまわず、よく巣を作ります。でも、お互いに使わない空間を共有しているので、現役の巣は、そのままにしています。そして、空き家になったものは、もういいよねと取り去るようにしています。   どこにいようとも、自分の世界を、淡々と作り上げる蜘蛛。   今日は、銀の糸が織りなす、儚い宇宙を感じる詩をおくります。   > The Spider holds a Silver Ball > In unperceived Hands ― > And dancing softly to Himself > His Yarn of Pearl ― unwinds ― > > He plies from nought to nought ― > In unsubstantial Trade ― > Supplants our Tapestries with His ― > In half the period ― > > An Hour to rear supreme > His Continents of Light ― > Then dangle from the Housewife's Broom ― > His Boundaries ― forgot ― > > 蜘蛛が 銀の玉 ひとつ 抱きかかえ > 手のうち 見せぬまま > ひとり 軽やかに おどりながら > 真珠の糸を ほどいてゆく > > 何もないところから > 何もないところへと > 編みあげてゆく > 命をつむぐ そのためだけに > 気づけばもう > 壁の飾りに 取ってかわって > > 1時間もすれば それはすばらしい > 光とひと続きの世界が できあがる > つぎの瞬間 家のひとの ほうきに ぶらり > 世界の継ぎ目は もう過去のもの よく晴れたある日、近くの森におじゃましたときのことです。歩き疲れ、座ったきりかぶに、先客がいました。ムカデです。一瞬ドキッとしましたが、森のムカデは、日光を浴びながら、ひたすら、ぼーっとしていました。どれが手か足か分からないですが、時折、もぞっと手足を動かしながら。 あの日、スリッパの大ムカデは、私たち以上に、びっくりし、怖かったのではないか。本来は、こんなにも、のんびりした生きものなのに……ごめんよと思いながら、森のひとときを、ともに過ごしました。 穏やかに、そっと暮らしていたいだけ。 その気持ちは、虫も、人も、同...
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    11 分
  • エミリー・ディキンソン「草原をつくるなら クローバーとミツバチを」
    2022/05/12
    こんにちは。 日を追うごと、草木がぐんぐん育ち、うす緑色だった柔らかな葉っぱも、その濃さと力強さを増しています。見ているだけで、元気を分けてもらえそうですね。おかわりありませんか。命の息吹を、そこかしこに感じる5月、私はいくつかの記念日を迎えます。 毎年、この時期になると、春の大掃除をしながら、棚の奥のホコリっぽくなった思い出ボックスを取り出します。そして、1年ぶりの思い出と再会し、また新たに、この1年に得た記憶を箱につめます。今年は、さらに手を伸ばし、棚のもっと奥に眠る、ボロボロの箱を開いてみました。 そこには、学生時代の寄せ書きや、友達にもらった特別なお土産などが入っています。それは、沖縄の星の砂の入った小瓶、デンマークの街並みのスノードーム、アフリカの動物のキーホルダーなど、時代も、国も、さまざま。私のものではない、旅の思い出。私には、難しい病が眠っているので、大きな旅に出ることは叶いません。でも、沖縄の海がテレビに映れば、星の砂の感触が、本の舞台がデンマークの街ならば、スノードームに舞う雪が……遠い昔、そこにいたことがあるかのように、わずかな懐かしさが、胸に広がります。 旅のかけらを集めた箱の中は、小さくても、私の世界そのものなのです。箱の奥をさらに掘り進めると、小さな金の大仏が10体、発掘されました。 一瞬ギョッとしましたが、これらは、小学校の社会科見学の鎌倉で、自分が買ったものです。5センチほどの大きさながら、精巧にできたお姿に心惹かれ、自分と家族、塾の友達のお土産にと選んだのでした。 でも、渡すタイミングを逃すこと、四半世紀以上。箱のフタを開くたび、ギョッとして、「このチョイスは……」と、過去の自分への言葉を飲み込みます。 そして、心の中で、「ありがたく、ここまで歳を重ねております」と手を合わせ、秘密の仏殿の扉を、ふたたび閉じるのでした。他にも、もう会えない彼女がくれた、オレンジ色の花束のリボン、涙も笑いも共にしてきたのに、1つだけ欠けてしまったお揃いのマグカップ。どれも、誰かにとっては、ガラクタのようなもの。でもそれが、自分にとっては、思い出のものであったり、どうしても捨てられないもの、また、特別な思い入れがあるものなのです。「これは世界のかけら」また「これは思い出のしっぽ」と言って、ガラクタは増えてゆく一方。でも、いつか、ある時、たったひとつを残し、すべてを手放そうと思っています。さいごのさいごに、手にしていたいものは、何だろう。自分に問いながら、その「たったひとつ」とは、まだ出会えていないような、すでに持っているような。それが分かるまで、今しばらくは、小さなガラクタを集めてしまいそうです。果てのない想像の世界へと、 はたまた、底のない深き思い出へと、 連れ出してくれるのは、いつも「小さきもの」。今日は、そんな、 小さなひとつから広がる世界の詩をおくります。 To make a prairie it takes a clover and one bee, One clover, and a bee, And revery. The revery alone will do, If bees are few. 草原をつくるなら クローバーとミツバチを クローバーひとつ ミツバチ1匹 それから 思い描くこと ミツバチが いないなら 思い描く それだけでうちの庭のクローバーも、タテに、ヨコに、もこもこと、成長しています。 この緑の一角を、じっと見つめていると、草原にいるような気持ちになります。花が咲けば、ちょうちょも、ハチも、やってくるメルヘンな風景。「クローバー畑に寝そべって、空を眺める」という、憧れのシチュエーションを再現してみたところ、背中がびしょびしょ、虫らだけになりました。 クローバーは、かわいい様子からは想像できないほど、根っこが強く、結びつきあい、水分をたっぷり抱いて、小さな生きものを、育んでいるのです。現実はいつも、想像の、少し斜め上をいくものだと、びしょびしょの背中に実感しました。世の中のすべてを、ひとりで経験することはできませんが、 沖縄の星の砂、デンマークの雪、そして、大仏10体のゆくえ…… 想像のフレームの外は、上下左右、ちょっと斜め、...
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    10 分
  • エミリー・ディキンソン「自分の居場所を決めるのは その心」
    2022/04/14
    こんにちは。 日ごと気温が、急上昇したり急降下したり、何を着ればよいやら毎日悩んでいましたが、春のご機嫌はようやく落ち着いたようですね。クローゼットから出しては、しまってを繰り返していた冬の服も、やっとクリーニングに出しました。身にまとうものが薄くなると、気持ちも少し軽くなったような気がします。おかわりありませんか。 1年ぶりに、春ものの服を出し、ふと冷静に並べて眺めてみたところ、何だかどれも、似ている服ばかり。 たまには気分を変え、ちょっと違うタイプの服を着てみたくなり、さっそく買いに出たのですが、いいかなと手に取る服は、またいつもと同じ感じの服……。ひとつ隣の店の「あの服」を選んだら、知らない自分が現れたりしてと妄想しながら、結局、何も買わずに帰ってきました。 「自分らしさ」というものは、いつも私の味方で、心地よくも心強い、一番落ち着く「居場所」です。それはきっと、これまで選んできたものの数々……着るもの、食べるもの、行くところ、話すことば……ひとつ、ひとつから出来上がっているのですよね。 知らず知らず、「自分ぽいもの」を選び続け、出来上がったのは、脆そうで実は簡単には崩れない「自分らしさ」。これに寄りかかって過ごすことは、とても楽ではありますが、たまに窮屈で、ちょっと味気なく感じることがあります。 「自分らしさ」の外にもある、「好きなもの」と出会わないまま、この一生を終えていいのかなと、思ったりもして。 私の友人で先輩でもある方が、60代で大型2輪の免許を取り、ご両親の介護を経て、70代直前で念願のハーレーに乗るようになりました。 日ごろは、晴れの日も雨の日も、着物がユニフォームのような彼女。身にまとうもの、一枚でも薄く少なくしたい酷暑の待ち合わせにも、凛とした着物姿で現れました。私が不躾に、「暑くないのですか」と尋ねても、「夏の着物は、見る方に涼を分けるものなのよ」と微笑む。その笑みに、真夏の風に揺れる、風鈴の気持ちを見たような気がしました。 そんな彼女が、着慣れた着物を脱ぎ、黒い革ジャンを着て、結い上げた髪をほどいてヘルメットをかぶる。 白い足袋のかわりにレザーブーツを身につけて、自分の身体より大きなバイクにまたがり、風を切って走ります。 着物の裾にすら、わずかな風も起こさず歩く彼女が、ブルルン、ドロロン、ズドドドドと、地鳴りのようなエンジンを吹かし、爆音の彼方に、新たな自分を見つけて。 あふれかえるものの中、手に取れるものも、目に見えないものも、どれもいいけど、どれでもない。自分が欲しいもの、求めているものすら、分からなくなることがあります。「選ぶ」感性が、すっかり硬直しワンパターンに陥っている私にとって、彼女の激変は、とても眩しいものでした。 私たちが選べないのは、生まれおちる場所と、生きる時代。 でも、ある時、ある場所で、 自分の命を得たそのあとは、選択の連続です。 選んだもの、同時に、選ばなかったもの、 そのひとつ、ひとつで自分が作られ、 周りの世界は、彩られてゆきます。 自分らしさの中で、また、外で、 「ここに決めた」や「あなたに決めた」と、腹をくくる。 その瞬間、閉じながら、開いてゆく内なる世界。 今日はそんな、「心決めた瞬間」を思わせる詩を送ります。 The Soul selects her own Society - Then - shuts the Door - To her divine Majority - Present no more - Unmoved - she notes the Chariots - pausing- At her low Gate - Unmoved - an Emperor be kneeling Upon her Mat - I've known her - from an ample nation - Choose One - Then - close the Valves of her attention - Like Stone - 自分の居場所を決めるのは その心 扉を閉じたら 与えられた多くのものに 背を向けて 心動かされない 小さな門の前に 迎えが来ていることに 気づいても    心揺れたりしない その入り口で 立派な人が 膝をついて 待っていても 私には分かる 多くの生きる選択肢から ひとつを選んだら それからは もう何も見えない 聞こえない かたい石のように閉ざす ...
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    11 分
  • エミリー・ディキンソン「石ころって いいな」
    2022/03/10
    こんにちは。 本格的な春の目覚めに向け、今日は、髪を短く切り揃えました。帰り道、すれ違った学生さんのコートの下、胸元にちらり、ひと足早く咲いた春の花を見つけました。卒業、門出の季節を迎えているのですね。おかわりありませんか。 学生のころは、進級や進学といった節目がありましたが、大人になってからの日々には区切りがつきづらいものです。ですが、特に人生のイベントがなくても、この時期は自然と気持ちが改まりますね。 この春、赤ちゃんの頃から見てきた近所の子どもたちが、小学校にあがります。 我が家の外壁には、少し低いコンクリートの台のような場所があり、そこがよく外遊びをする彼らに重宝されています。ちょうど幼児の腰の高さなので、彼らの遊びのおもむくまま、ベンチやジャンプ台になったり、時に歌や踊りのステージになったり、そして、おままごとのキッチンになったりします。 キッチン利用時には、どこからともなく登場する「パンケーキの石」と呼ばれる、丸くて平たい石があります。大人の手のひらほどのサイズの、色白のきれいな石です。灰色のコンクリートのキッチンの上で、木の実や葉っぱでデコレーションされると、赤や緑の彩りに映え、つい頬張ってみたくなるほど美味しそうなのです。 パンケーキの石は、私たち近所の大人たちとともに、子どもたちがあれこれ工夫しながら、出来るようになってきたことの数々を見守ってきました。 ところが、春一番が吹いたころのことです。パンケーキの石が、半分に割れてしまっていたのです。丸いパンをちょうど真ん中でちぎったような片割れが、ある日、ころんと転がっていました。子どもたちは一瞬、戸惑っていましたが、手に馴染むチョークにして、すぐ新しい遊びの仲間として受け入れていました。でも、もう半分が、どこを探しても見当たらないのです。 大人の私の方が喪失感に苛まれ、片方がいなくなって初めて「パンケーキの石」のこれまでの歩みに、思いを巡らしました。そもそも、海岸の砂が長い時間をかけて固まってできたような石が、どこから、どうやって、丘の上のコンクリートキッチンにたどり着いたのだろう、と。 石ころは、地球の子ども。 ある時、ふるさとから飛び出して、ごろごろ転がり、他の石とぶつかりながら、だんだんと角が取れ、丸くなり、やがて、子どもの手のなか、やさしい形に。そして、また途方もない時間をかけて、ふるさとへ還ってゆきます。 じっと見つめていると、私たちの時計では計れないほどゆっくりと呼吸をしている、ひとつの「意志」を持った生きもののようにも思えてきます。石だけに。 この春、子どもたちが自分の足で小学校に通えるまでに成長したのを見届け、「あとは頼んだよ」と二手に分かれ、春風に誘われるまま、旅の続きに出たのかもしれません。いつかまた、別々の物語を携え、ひとつになることを夢見て。 どこにでもある丸い石ころ。でも、小さな隣人たちの人生の中で、あっという間に過ぎてしまう幼児期を、ともに過ごした特別な石であったことにはかわりはありません。 新年度、パンケーキの石も、次のステージへ。 きっとどこかでまた別の名前を付けられたりしながら、 「寄り道だって、自分の歩む道」と気ままに転がり続けている。 そんな「石ころの生きざま」に憧れてしまう詩をおくります。 > How happy is the little Stone > That rambles in the Road alone, > And doesn't care about Careers > And Exigencies never fears ‒ > Whose Coat of elemental Brown > A passing Universe put on, > And independent as the Sun > Associates or glows alone, > Fulfilling absolute Decree > In casual simplicity ‒ > > 石ころって いいな > 道ばたに ひとり ころころと > うまく歩もうなど 思わずに > 危ないことも 怖がらず > その飾らない茶色の衣は > 過ぎゆく宇宙がくれたもの > おひさまのように 我が道をゆきながら > 誰かと力を合わせたり ひとり磨かれ光ったり > 自らの命(めい)を果たし 尽くそうと > 自由気ままな 無邪気さで 20代のいつかの春、新卒で...
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  • エミリー・ディキンソン「憧れは種のように」
    2022/02/08
    あなたへ こんにちは。頬が凍るような風吹く日々が続いていますが、町のショーウインドはもう春の装い。毎年、「まだこんなに寒いのに、気が早いなあ」と思うのですが、暦は二十四節気の始まり「立春」を迎えました。冬はもう、春にバトンを渡したのですね。おかわりありませんか。 家の裏に、種類の違う紫陽花を3つ植えているのですが、葉っぱの赤ちゃんたちも一斉に芽吹いていました。七十二候が「東風解凍(はるかぜ こおりをとく)」とうたうように、霜柱も解け、土の中の生きものたちも、わずかに漂う春の香りに目覚めつつあります。 壁のカレンダーを太陽の「天の暦」とするならば、土に生きるものたちの季節を語る二十四節気と七十二候は「地の暦」のよう。「暑い」「寒い」といった体感とは少しズレがあるものの、私たちの暮らしのそばで、身体と心の調子にも深く結びついていると実感することがあります。 実は昨年から、こっそり取り組んでいる、運動の素人には少し難しい課題があります。 「Y字バランス」です。 十数年前、家族と将来の夢を語った時、すぐに思いつかず、苦し紛れにこれを掲げたことがありました。ずっと忘れていたのですが、昨年、体調を崩したり、大怪我をすることが続いた時、自分を作り直そうと決め、改めて目に見える目標として設定したのでした。 でも、何をやればいいか分からず、まずは体力をつけるべくスイミング。そして、同施設内のスタジオプログラムにも参加。タルタルなのにカチカチの身体で、鏡に囲まれたスタジオに立った時の、絶望的な気持ちといったら……。心の中、自分のガマの油に溺れながら、バレエやヨガ、太極拳、さらには、フラ、サルサまでつまみ食い。「体の使い方の共通項」など見つけながら、身体の方程式をYの字に解こうとする日々を送ってきました。 抱えた悩みが、淡い期待や小さな希望に育つこともありました。身体が柔らかく強くなったら、心もしなやかになれるのではないか。そしたらば、揺れやまぬゆりかごに、眠る病も目覚めなくなるのではないか、とも。 ところが、年末年始で生活のリズムが崩れ、たたみかけるように「寒の入り」、身体が動きづらく、筋肉も硬くなってゆきました。さらに、北風に身をぎゅっと縮める上に、たくさん重ね着をするので、心身ともに氷る石像のようになりました。 でも、あとひと月も経てば、「魚上氷(うお こおりをいずる)」時が来る、そう少し先の暦を拠りどころに、氷の下のワカサギの気持ちで、遠くの陽の光にゆらゆらと、揺られるままに過ごしました。 そして、いま「立春」。わずかながら、身体の奥が緩んで来たように感じます。冬眠期を超えてみると、以前より動きが深まったようにも。パンの生地や、ハンバーグのタネも、冷蔵庫で寝かせると美味しくなるように、人間にもそのような期間が必要なのかもしれませんね。 今はまだまだ、Y字どころか、T字行き止まりのこの身体。 目に見えないものの変化は、地底のマントルのようにとてもゆっくりです。 でも、ある時を超えると、すっと動くようになる、 そんな境界線があるのではないかと思っています。 きっと誰もが知っている、「自転車に乗れた」、あの瞬間のように。 暗い土の中から、明るい地上を目指す。 暗闇に佇む希望への、応援メッセージのような詩をおくります。 > Longing is like the Seed > That wrestles in the Ground, > Believing if it intercede > It shall at length be found - > > The Hour, and the Clime, > Each Circumstance unknown - > What Constancy must be achieved > Before it see the Sun! > > 憧れは 種のように > 土のなか もがきながら > 2つの世界をとりなす一線を越えたなら > きっと 辿り着くと信じて > > 時の流れも 風の色も > なんの手がかりも ないままに > その ひたむきさは やがて実を結ぶ > 太陽の光に出会うころには 春の新芽、そして夏の蝉。 彼らは地図や目印もないのに、どうやって暗闇から地上を目指すのでしょう。 私たちにも、そんな能力があればいいのにと羨しく思...
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