• 神様にもたれて通る
    2024/10/04
    神様にもたれて通る 岐阜県在住  伊藤 教江 「あなた、このままだと死にますよ! すぐに入院、手術です!」 そうお医者さんから言われたのは、今から遡ること35年前でした。 私は人生の大きな岐路に立たされていました。子供の頃から大きな病気もせず元気に過ごしてきた私にとって、その言葉はあまりに衝撃的で、とても受け入れられるものではありませんでした。 「嘘でしょ…何かの間違いに決まってる。だって、痛くも痒くもない。食欲もある。今だって元気に動き回ってるし…」 確かに私のお腹には、いつからか小さな固いしこりが出来始めていました。それでも、「大したことはない」と少しも気に留めていませんでした。ただ、母が心配してくれていたので、母に安心してもらうために「まあ、一度病院で診てもらおうか」と、とても軽い気持ちで診察を受けました。 その後、いくつかの検査によってデスモイド腫瘍が見つかり、冒頭のお医者さんからの一言で、私の心は一瞬にして奈落の底に落ちたのです。  病院からの帰り道、今まで当たり前に見てきた街並みや、道端の小さな草花、流れる川さえもが愛おしく感じられ、「きっと、私がいなくなっても何事も変わらず、来年もまた花は綺麗に咲き、川も止めどなく流れ、時は過ぎていくんだろうなあ…」と、命のはかなさを感じ、ただただ涙を流したのでした。 当時、私にはまだ幼い二歳と一歳の二人の娘がいました。 「この子たちを置いて死ぬわけにはいかない! もし私がここで死んだら、この先この子たちはどうなるんだろう…。お願いです!何とか救けてください! 山ほど借金して、世界中から名医を探し出してでも、命を救けてもらいたい! たとえ動けなくなっても、どんな姿になっても命だけは救けてもらいたい!」 何度も何度も、どれほど心の中で叫んだことでしょう。しかし、どんなに望んでも願っても、思い通り、願い通りにはならないのが現実です。 そんな時、「人を救けたら我が身が救かるのや」という教祖のお声が、繰り返し繰り返し聞こえてくるような気がしました。 「人救けたら我が身救かる」。その教えは今まで何度も聞かせて頂いていたけれど、実際は頭で理解しているだけで、本当の意味で心の底に治まっていなかった。 親々の信仰を受け継いで今日まで生きてきたけれど、親神様を我が心でしっかりとつかめていなかった、もたれ切れていなかったということに気づいたのです。 そして、「このお言葉が真実なら、親神様は絶対におられる! このお言葉通りに実行して命をたすけて頂いたら、この親神様は絶対に間違いのない真実の神様である」と思えたのです。この病は私にとって、目に見えない親神様のお姿を心で感じ取るための大きなチャンスでもありました。 ある教会の先生からは、「固い鉄は、熱い火が溶かす。やわらかい身体に出来た固いしこりは、熱い心が溶かす。熱い心とは、人をたすける心である」と聞かせて頂きました。 人をたすけるとは、病んで苦しんでおられる方におさづけを取り次がせて頂くこと。これしかありません。この時ほど、教祖から尊いおさづけの理を頂戴していたことを有難く思ったことはありませんでした。 「人救けたら我が身救かる」との教祖のお言葉を胸に、病院中をおさづけの取り次ぎに回らせて頂きました。 見ず知らずの人におさづけを取り次ぐのは、とても大変なことでしたが、当時の私はそんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした。「もっとおさづけを取り次がせて頂けば良かった」と、悔いを残すことは出来ませんでしたから。必死に我が心と戦いながら、病室から病室へと回らせて頂きました。 そんな私のたすかりを願い、主人は3月のまだ寒い中、水ごりをして十二て頂いている今、一分一秒、この瞬間生かされていることをしっかり喜ばせてもらいなさい」と聞かせてくれました。それは、いつでも教祖のひながたを心の頼りとして懸命に通ってきた親の言葉でした。 そして、来たる手術の日。教祖のお言葉を心に置き、10時間にも及ぶと予定されていた手術に臨みました。お腹の...
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  • 産後に起きた大激変
    2024/09/27
    産後に起きた大激変 静岡県在住  末吉 喜恵 私は双子を含む五人の子供を育てる母親です。教会で育ち、少年会の活動などで幼い頃から多年齢の子供とふれ合い、大きくなってからも小さな子と遊ぶのが常で、自分では子供好きを自覚していました。 なので、赤ちゃんが生まれたら、子育ては自然にできると思っていたし、我が子を当たり前のように可愛がれるのだろうと思っていました。泣き始めたら、「今はお腹が空いてるんだな」とか、「おしっこが出たのかな」とか、そんなことも自然に分かるのだろうと。 でも、実際はそうではなかったのです。初めての子育ては、本当に分からないことだらけ! 何で泣いているかなんて、最初は全然分かりませんでした。生後一カ月ほどして、赤ちゃんと一緒の生活にリズムが出来てきた頃にようやく、「お腹が空いているのかな?おむつなのかな?」と、感じられるようになったことを思い出します。 産後の女性に起きること、それは四つの大激変です。 一つ目は、身体的な変化。予想外のダメージが連続します。出産とは、大怪我を負うようなものだと言われています。分娩をスムーズにするために会陰切開をしたり、帝王切開でお腹を切った後も、それはそれは痛いです! 双子を産んだ時は帝王切開で、産後一カ月は痛みが消えませんでした。 また、授乳は予想以上に重労働で、初めは時間もまちまちで赤ちゃんの姿勢も定まらないし、小さい赤ちゃんは大事に扱わなくてはいけないので、神経を使います。母乳で育てた方が丈夫な子に育つ、という周りからの助言がプレッシャーになったことも正直ありました。 二つ目は、精神的な変化です。突然母親になり、不安を抱えながらも自分がやるしかない状態に放り込まれます。妊娠中に色々な本を読んだり、出産準備のための教室を受けたりしましたが、実際に命を預かるのとは大違いで、戸惑うことばかり。その重さに知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけてしまいます。 三つ目は、時間的環境の変化。徹底的に時間が細分化され、自分のための時間がゼロになります。赤ちゃんのお世話をするのに、夜昼の区別もなくなり、授乳、おむつ替え、抱っこ、寝かしつけなどなど、休む間もなく24時間稼働状態になります。いつ何が起きるのか分からないので、自分の時間はもちろんないし、トイレに行くことさえもままならない。こんな状態がいつまで続くのか、終わりが見えず不安になります。 四つ目は、社会的環境の変化です。核家族化が進む中、私も夫と赤ちゃんと三人で暮らしていました。外出もできず、話し相手がまったくいないというのは本当にしんどくて、社会から取り残されたような感覚に追い込まれます。私は妊娠期に仕事もやめたので、収入面での不安もありました。 仕事とは異なるスキルが必要で、ましてや相手は生身の人間ですから、思うようにいかないことが多く、毎日お世話をこなすだけで精一杯です。加えて、それまでは自分の名前で呼ばれていたのに、赤ちゃんと常にセットなので、急に「〇〇ちゃんのお母さん」と言われ始め、まるで自分の存在がなくなったようでした。 赤ちゃんは、一人では生きていけない存在であり、常に誰かのお世話を必要としています。もともと母親一人で子育てをするのは難しいことなのですが、しかし現実はどうでしょう? 多くの母親が周りに頼る人がおらず、不安や孤独を感じている場合が多いと思います。 ガルガル期というものを知っていますか? 産後にホルモンバランスが崩れて、情緒不安定になる時期のことで、私も経験しました。この時多量に分泌されるオキシトシンというホルモンは、子供や夫に対して愛情を深める働きを持っているのですが、産後は子供を守るために周囲に対して攻撃的になってしまうという作用もあるのです。大好きな夫にすら、「近くに来ないで!」と思った瞬間もありました。自分でもびっくりです。 それに加え、双子を出産した直後は、夜泣きがひどく眠れない日が続きました。子供は可愛い!でも、虐待してしまうお母さんの気持ちも分かるような気...
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  • 優先順位
    2024/09/20
    優先順位 大阪府在住  山本 達則 ある日、何気なくインターネットを検索していると、海外のあるお話に出会いました。「マヨネーズの瓶と二杯のコーヒー」というタイトルで、海外でも大きな反響があったお話です。 ある大学の哲学の教授が、授業が始まると、空っぽのマヨネーズの瓶を取り出し、その中にゴルフボールを入れていっぱいにしました。次に教授は小石の入った箱を取り出し、それを瓶の中にあけ始め、ゴルフボールの間を小石で埋めました。 次に教授は砂の入った箱を取り出し、それもまた瓶の中に入れて隙間を埋めました。そして最後に、二杯のコーヒーを取り出して瓶に注ぎ、砂の隙間をすべて埋め尽くしました。不思議な組み合わせに、学生たちは笑い出しました。 「さて」、笑いが静まると、教授は言いました。 「この瓶は、あなた方の人生を表しています。最初に入れたゴルフボールは、人生で最も大切なものです。それは家族であり、健康であり、友人、情熱など、それさえあれば、あなたの人生は満ち足りたものになります。次に入れた小石は、仕事や家、車など。次の砂は、その他のほんの小さな、ささいなものです。 人生において重要なこと、『ゴルフボール』を大事にしてください。子供と一緒に遊び、健康診断を受け、パートナーと一緒に食事を楽しんでください。掃除や物の修理など、家のことをする時間はいつでもあります。 大切なのは、優先順位を間違わないということです。小石や砂で人生を満たしてしまっては、ゴルフボールの入る余地がなくなります」 ここまで話すと、一人の学生が「コーヒーは何を表しているのですか?」と尋ねました。教授は、「あなたの人生がどれだけ手一杯に見えても、友人とコーヒーを飲む時間はいつでもあるということを表しています」と言って、微笑みました。 人間は誰しも、欲望や損得勘定で動いたり、人の好き嫌いで対応を変えたり、いわゆる「自己中心的」な考えを持っています。そしてその感情は、「家族」に対しても向けられることが多々あります。夫は仕事が忙しくなると、妻や子供の声に耳を傾けなくなったり、邪険にしてしまったりすることがあります。 また、家事を担っている妻にしても、余裕がなくなると、夫の仕事に理解を持てなくなったり、思い通りにならない日常にイライラして、家族に当たってしまうということもあるでしょう。子供は子供で、願い通りにならないことに突き当たると、家族に対する態度や言動が粗暴になることもあるかも知れません。私自身も父親として家族と過ごす中で、大いに心当たりのあることです。 このような日常を俯瞰してみると、夫は家族の幸せのために、必死になって仕事をしている中でのこと。家事を担っている妻にしても、家族のことを大切に思うがあまり、行き過ぎた行動に出てしまうのだと思います。 このように、私たちは優先順位を間違ってしまうことがあるのです。お互いの人生という器の中に、何よりも大切な「家族」というゴルフボールを入れる前に、「仕事」や「家事」、すなわち小石や砂で瓶を満たしてしまっているのです。 もちろん、仕事や家事は適当にこなせばいい、ということではありません。何より大切なのは、家族や周りの人たちに対する「心」の使い方ではないでしょうか。 腹が立つけれど、笑ってみよう。面倒だけど、自分から進んでやってみよう。相手が悪いと思っても、こちらから謝ってみよう。忙しい時でも、しっかり相手の話に耳を傾けよう。そういった心の使い方が、ゴルフボールで満たされる人生につながっていくのだと思います。 天理教では、ご守護を十分に頂くための「順序」の大切さを教えられています。 「まいたるたねハみなはへる」 「人をたすけて我が身たすかる」 まず、種を蒔くという行動があってこそ、その先に芽生えを見ることができます。また、あくまで人をたすけて我が身がたすかるのであって、「自分がたすかったら人をたすけますよ」では順番が逆なのです。それではいつまで経っても、神様のご守護に浴することはできません。 地球上...
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  • SNSたすけ
    2024/09/13
    SNSたすけ 千葉県在住  中臺 眞治 四年前、世間はコロナ禍となり、私たち家族も「ステイホーム」ということで、教会の中で過ごしていましたが、元々信者さんが一人もいない教会なので、何をしたらいいのか分からないという日々でした。そうした状況の中、私自身、神様から何かを問われているような気がして、夫婦でよく相談をしていました。 そんなある日、天理教青年会主催の「SNSたすけセミナー」が開催され、私も参加しました。「SNSたすけ」とは、SNS上で「生きる気力がない」というようなメッセージを発信している方とつながりを持ち、相談に乗る活動です。そして、必要な場合には教会で受け入れ、衣食住を提供しながら、その方が生き抜いていけるように手だすけをします。 私どもの教会には空いている部屋がいくつかあるので、これなら自分たちにも出来ると思い、妻と半年ほどの相談期間を経て、コロナ禍の令和3年3月に始め、現在まで29名を受け入れました。 活動を始めて間もない頃、ある30代の女性、Aさんとつながりができました。Aさんはすでに自ら命を絶つ日を決めていて、その日までのカウントダウンを日々SNS上で更新しながら、一緒に死んでくれる人を募っていました。 もしかしたら、教会の中で自殺してしまう可能性もあり、妻にその不安を話しましたが、最終的には二人で覚悟を決め、教会でお預かりすることになりました。 教会で暮らし始めてからも、カウントダウンは日々更新され、心配な状況は続きましたが、うちの子供たちを可愛がってくれたり、他の入居者の方とテレビを見ながら大笑いしたりと、楽しそうな姿も見られました。 日によって色々なことがありましたが、数週間が経った頃、Aさんがふと「今は死にたいなんて全く思わないです」と話してくれたことがあり、私たち夫婦もとても嬉しい気持ちになりました。おそらくAさんは、教会で入居者の方や私たち家族と共に過ごすうちに、それまで感じていた孤独感や絶望感が徐々に心の中から消えていったのだと思います。 その後、Aさんのお父さんが教会へお礼に来てくださいました。 「心配でしたが、家族にはどうすることも出来ませんでした。この教会にお世話になっていなかったら、娘は生きていなかったと思います」と、涙を浮かべて話してくださいました。 私たちが何か特別なことをしたわけではありません。振り返ってみると、神様がAさんにとってちょうどいい人との縁を、その時その時に応じてつないでくださっていたのだと思います。 Aさんはその後、一年ほど教会で暮らしながら仕事に通っていました。そして教会を出た一年後に結婚し、先日、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて教会を訪ねて来られ、共に喜びを分かち合いました。 SNSたすけでは、Aさんのように嬉しい出会いや別れもあれば、やるせなさが残る出会いや別れもあります。しかし、それらの縁はすべて神様がつないでくださっているのだと思う時、このおたすけは、私たち夫婦にとっての有難い学びの場であると感じることができるのです。 また、こうした活動は私たち夫婦の力だけでできるものではありません。アドバイスをして下さる方、寄付などで協力をして下さる方、トラブルがあっても許して下さる近隣住民の方など、活動を理解し、応援して下さる方々のおかげで継続できている活動です。そのことを思う時、私たちもたすけて頂いているのだなあと温かい気持ちになり、困っている人を前にした時には、自分にできることを何かさせてもらおうという気持ちになるのです。 私自身、コロナ禍を振り返ってみて思うことがあります。この期間、「ソーシャルディスタンス」や「ステイホーム」が叫ばれ、人との距離をとることが大切にされる一方で、孤立や貧困の問題が浮き彫りになり、そうした報道が連日のようにされていました。 こうした社会状況にも神様の親心が込められているのだとすれば、私たち夫婦が神様から問われていたのは、信仰の有無にかかわらず色々な人と出会い、たすけ合うという生き方であったのではないかと感じています。 天理教の原典「...
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  • 20年後のラブレター
    2024/09/06
    20年後のラブレター              岡山県在住  山﨑 石根 6月の初旬、妻から私宛てのハガキが届きました。ところが、その郵便を受け取った妻自身が、「あれ?何で私から手紙が届いてるんやろう?」と、心当たりがないようなのです。 よく見ると、宛名が市町村合併以前の住所になっています。そして丁寧に、「市町村合併で住所が変わるかもしれないので、その場合は天理教の教会に連絡してください」との注意書きと共に、教会の電話番号まで書かれていました。 二人で不思議がりながら通信面に目をやると、20年前の日付けと「20年先へのメッセージ」というタイトルの下に、妻の直筆の文章が書かれているではありませんか。 何と、当時29歳の妻から、20年後の私に宛てたラブレターだったのです。この年に天理市の事業として、タイムカプセルに手紙を入れるイベントがあったようで、その時に妻が出した手紙がこの時届いたのです。 「サッキー、今、元気ですか? 今、幸せですか? 私たちは互いにたすけ合って、補い合って、思いやりのある夫婦でいられてるでしょうか?あの頃の私は不足がちの毎日を通っていましたが、サッキーの優しい言葉や周りの人からの神様のお話しで、心に潤いを与えてもらいました。今の私は、逆にサッキーや周りの方々に返せているでしょうか?」 私は結婚当初、妻からサッキーと呼ばれていたのですが、その頃の彼女は、20年後もきちんと夫婦でいられているか、教会で生活をしているのか、子どもを授かっているのか。現在の私たちの様子は全く想像もつかなかったはずです。 そんな新婚ホヤホヤの若い妻からの20年越しの問いかけに、私は少し照れながら、「元気でたすけ合っているよ」と呟き、現在の彼女に「十分すぎるぐらい返してもらってるよ」と伝えました。 20年前の6月13日、私たちは天理市にある教会本部の教祖殿にて結婚式を挙げました。ご縁のあった教会本部の先生に主礼を務めて頂き、夫婦の固めの盃を頂戴しました。 今年の結婚記念日には、挙式の時に読み上げて頂いた祝詞を20年ぶりに取り出し、改めて二人で読んでみたのですが、その中の次のような内容が目に留まりました。 「未だ二人は至らぬ勝ちではございますが、今より後は互いに変わることなく、千代の契りを結び、常に教祖のひながたを心に湛えて、如何なる中も一つ心に睦び合い扶け合いつゝ日々晴れやかに心陽気につとめさせて頂く覚悟でございます」 折りしも20年前の妻からの「たすけ合っているか」との問いかけも相まって、「ああ、結婚とはこういうことなんだなあ」と改めて私は感じ入ったのです。 このように手紙であったり、祝詞もそうですが、実際に書いた文字を読み返したり手に取ることが出来ると、嬉しさも一入です。 この20年間で世の中は目まぐるしく進展し、スマートフォンやタブレットの普及により情報伝達のスピードは格段に上がりました。そのような、老若男女を問わずSNSを利用する時代になったからこそ、誰かが自筆の文字に認めてくれた想いが、一層嬉しく感じるのでしょう。 天理教の教祖「おやさま」は、ご在世中に自ら筆を執って「おふでさき」というご神言を書き残されています。「おふでさき」は天理教の原典であり、私たちが常日頃から親しみ、拝読しているものですが、この教祖のお言葉にふれる度に、20年どころか、実際に教祖が書かれた140年以上前にタイムスリップして、教祖から直接メッセージを頂いているような心持ちになるのです。 そうして私も妻と同じように、神様のお言葉によって心に潤いを与えて頂いているとすれば、これを教祖からのラブレターだと表現するのは言い過ぎでしょうか。 さて、記念日から三日後の6月16日は、世に言う「父の日」でした。その日は一日御用で、夜帰宅したのですが、何だか子どもたちが慌ただしい様子です。どうやら中2の長女に急かされながら、小6の息子と小4の娘が慌てて手紙を書いているようです。 そして、私がお風呂から上がると、3人が「とと、いつもありがとう」と言いながら、父の日の手紙を渡してくれました。...
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  • おさづけは世界共通
    2024/08/30
    おさづけは世界共通 タイ在住  野口 信也 私は22歳の時にタイへ留学に出させてもらいましたが、一か月を過ぎた頃、父が倒れたとの連絡があり、日本へ一時帰国しました。そうした節もあり、再びタイへ戻る時、「もし、病気の方がおられるのを見たり聞いたりしたら、すぐに病の平癒を願うおさづけを取り次ぐ」と心に決めました。 私は天理で育ちましたので、周りは天理教の方ばかりです。そんな、いつでもおさづけを取り次げる環境が、かえって二の足を踏んでしまう原因ともなり、取り次ぐ機会を逃すことがよくありました。でも、タイでは私が躊躇してしまえば、その方は一生おさづけを取り次がれる機会を失ってしまう。当時の私は、若いなりにそんなことを考えていました。 タイに戻り、再度タイ語学校へ通い始めました。数日後、クラスメイトが欠席したので、理由を聞くと、お子さんが腕の骨を折ってしまったとのこと。早速、お子さんが入院しているクリスチャン病院へお見舞いに行きました。 そして、付き添っているクラスメイトに、息子さんにおさづけを取り次がせて頂きたいとお願いしましたが、「私はクリスチャンで洗礼を受けているので、受けることができません」とのお返事でした。 しかし、病人さんには必ずおさづけを取り次ぐと、親神様、教祖に約束をしていますから、手ぶらでは帰れません。なので、同室に入院しているタイ人の子供たちに取り次ごうと、親御さんにたどたどしいタイ語で天理教について説明し、何とか取り次がせてもらいました。 その後、毎日学校帰りにその病院におさづけを取り次ぐために通いましたが、ある日突然、「ここはキリスト教の病院です。勝手なことはしないでください」と看護師に言われ、そこでの取り次ぎはできなくなってしまいました。 そんなある日のこと、タイ在住の信者さん方が団体でおぢばがえりをするので、空港へ見送りに行きました。現地で布教している方々と一緒に皆さんを見送った後、出迎えの用もあった私は、一人空港に残りロビーで待機していました。 すると、少し離れた所が騒がしくなり、人だかりが出来ました。どうやら女の子が倒れたようで、そばにいた大柄な西洋人の男性が彼女を抱えて椅子に寝かせました。 私は正直、「あ、しまった。見てしまった」と思いました。病気の方を見たら必ずおさづけを取り次ぐと心に決めていたものの、なかなか勇気が出ません。布教師の皆さんも帰った後で、この大きな空港の人だかりの中で、天理教の信者は私一人かも知れない状況です。 色々考えをめぐらせた挙げ句、「よし、氷でも持って行って、もし症状が良くなったら、今日はおさづけはやめておこう」と心に決め、近くにあったお店で氷をもらい、恐る恐る持って行きました。しかし、女の子の症状は良くなるどころか「頭が痛い」と涙を流し、とうとう痙攣まで起こしてしまいました。 「こうなったら仕方ない」。私は周りにいたその子の友達に、「私は天理教という宗教を信仰するものですが…」とタイ語で話しかけました。すると、一人の男の子から「関係ない奴はあっちへ行け!」と言われ、その態度にカチンと来てしまい、気がつけば「いえ、私はこの子をたすけますから」と勢いよく答えていました。 そして、半ば強引に倒れている子の前に進み出て、柏手を二回打ち、おさづけの取り次ぎを始めました。 ただ、こんな人の大勢いる場所で取り次いだ経験がなかったので、緊張で気が動転していて、何度手を振って、何度神名を唱えたのか、まったく覚えていません。それでも何とか取り次ぎを終え、柏手を二回叩くと、次の瞬間、ひどい痙攣をしていたその子が、ガバッと上半身を起こし、頭をポンポン叩きながら、ケロッとして「あー、頭痛かったあ」と言ったのです。 私は何が起きたか分からず、「良かったですね」と言うのが精一杯でしたが、周りで見ていた友達が、「お兄さん、ありがとう、ありがとう」と、合掌をしながら次々にお礼を言ってくれました。 数分後、空港のスタッフがやって来て、念のためと言って、起き上がった彼女を医務室へ...
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  • おやつのポシェット
    2024/08/23
    おやつのポシェット 兵庫県在住  旭 和世 今年の元旦、能登半島で信じがたいような災害が起こり、一変した街の様子が報道を通して伝わってきました。 私が住んでいる神戸の街も、29年前の1月17日、大地震に襲われました。嫁ぎ先の教会は新神戸駅近くにあり、当時の避難生活の話をよく聞かせてもらいます。誰も予想だにしなかった天変地異に、成すすべもなく、日常がどれだけ有難いものだったのかを思い知らされた。そして、変わり果てた景色の中で、必死にたすけ合って復興への道のりを歩んできた。皆さん口々にそう話してくださいます。 神戸市の小学校では、年が明け、1月17日が近づくと「しあわせ運べるように」という歌を歌います。神戸の街の復興を願うこの歌を、子供たちが初めて聞かせてくれた時、私は涙が止まりませんでした。 親しんだ街並みが一瞬にして消え去り、切なくて、悲しくて、倒れそうな心を何とか奮い立たせている情景が目に浮かぶような歌なのです。 私は特に「届けたい わたしたちの歌 しあわせ運べるように」という最後の歌詞にいつも感動します。「しあわせを運びたい」という、辛い思いをした人たち自らが発する前向きなメッセージに心を打たれるのです。 神様のお言葉に、「人たすけたら我が身たすかる」とあります。このお言葉は、「自分がたすかりたいから人をたすける」という意味ではなく、人のたすかりや幸せを願う心を持つことが、何より自分がたすかっていく姿だと教えられているのです。そんな神様がお望みくださっている「人のたすかりを願う心」が、この歌から伝わってきました。 私どもがお預かりする教会では、「こども食堂」や「学習支援」を行っています。その活動を通してつながった地域の方から、「子供たちに震災のことを伝えたい」との声があがり、ある日のこども食堂で、神戸で被災された時のお話をして頂きました。 そして、お話のあと、参加してくれた子供たちと一緒に、被災した能登の子供たちに届ける「おやつのポシェット」を作りました。 被災地には、命に直結しないおやつなどは中々届きにくく、「あめ玉一つあったら、きっと子供たちは笑顔になれるだろう」という被災経験から生まれた取り組みで、何種類かのお菓子を詰めたポシェットをたくさん作り、それに応援メッセージを添えました。 すると、そのポシェットが現地の避難所に届いた翌日、私のケータイに一本の電話がかかってきました。 「昨日、能登市でおやつを頂いた子供の父親です。子供がとても喜んでいるので、ひと言お礼が言いたくてお電話しました」。 そのお父さんは、「みそらこども食堂」からの支援だと聞き、インターネットで調べて電話をくださったのです。 私がびっくりして声も出さずにいると、お父さんに続いて、「お菓子ありがとう!」と、お子さんが直接お礼を言ってくれるではないですか。私は急なことで慌てましたが、「神戸もね、大きな地震があって大変だったけど、みんながたすけ合って元気になれたのよ。能登もいま大変だと思うけど、たすけ合ってがんばろうね!お電話ありがとうね!」と伝えることができました。 このお電話を頂いて、神戸のみんなの真実が能登の子供たちに伝わったんだという喜びがあふれてきました。そして、こんなに喜んでくださるなら、継続的な支援として続けられたらいいなと思いました。 しかし、被災地の様子は刻々と変わっていきます。避難所ではまだまだ帰宅できない方も大勢おられますが、子供は二次避難をしているため、人数は減っていると聞きました。 その子供たちに、どうすれば継続的にポシェットを届けられるかと思案していると、ある方から、珠洲市で自ら被災しながらも、地域支援のために活動されている「メルヘン日進堂」という和洋菓子店を紹介されました。 そのお店では、被災された方たちの憩いの場として「たすけ愛カフェ」を開設していて、その方いわく「そこの社長さんだったら、『おやつのポシェット』をカフェに置いてくださると思うよ!」とのことでした。 そのお店の支援活動については、今年3月の...
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  • ランドセル
    2024/08/16
    ランドセル 岐阜県在住  伊藤 教江 三女の佳乃が五歳の時です。突然息つくことも出来ないほどの激しい咳をし出し、それが何日も止まらなくなりました。42、3度の高熱も続き、肺炎と診断され、入院を余儀なくされました。一度は回復して退院できたものの、半年も経たないうちにまた肺炎に見舞われ、再度入院することになりました。 二度の肺炎で、小さな身体は弱り果てていました。目の前で苦しんでいる我が子、代われるものなら代わってあげたい…でもそれは叶わないという辛さと悲しさで、私は心を倒していました。 そんな時、主人の母が、「より子はねえ…、より子はねえ、病院から元気に帰ってくることが出来なかった。でも、佳乃ちゃんはきっと元気になって帰って来てくれるから、何も心配しなくていいよ」と声を掛けてくれました。 より子ちゃんは、義母の三女で、主人の妹にあたります。より子ちゃんは五歳の時に白血病を患いました。何ヶ月も辛く苦しい闘病生活を送りながらも、早くから買ってもらった新しいランドセルを病院のベッドの枕元に置いて、元気に小学校へ通うことを何よりも楽しみにしていました。 でも、より子ちゃんはランドセルを一回だけしか背負うことが出来ずに、その後も病院のベッドで何度も何度も血を吐きながら、短い生涯を閉じたのでした。 より子ちゃんが出直した後、教会の客間の袋戸棚の中の誰にも見えない所に、「より子は死ぬの…」と書いてあるのが見つかりました。辛い闘病生活の中、最後の一時退院でうちに帰ってきた時により子ちゃんが書いたものでした。 血を吐くたびに、「私はこの先どうなっちゃうんだろう…」と不安は募っていくけれど、それは誰にも言えない。ましてやお父さんやお母さんに言ったらどんな悲しい顔をするだろう…。小さな胸は張り裂けそうだったに違いありません。 そうして病状が悪化する中、より子ちゃんはお母さんに必死の思いで尋ねたのです。 「お母さん、より子は死ぬの?死んだらどうなっちゃうの?」 苦しむ我が子にそう聞かれて、もし私が母親の立場なら、きっと何も言えず、ただただ涙があふれるばかりだと思うのです。 しかし義母は、「より子、何も心配しなくていいよ。より子は死んだら、またお母さんのお腹の中から産まれてくるんだよ! だから、何も心配しなくていいんだよ!」そう微笑みながら答えたのです。 我が子を失うという、これ以上ない辛く悲しいふしの中、義母はひたすらに教祖を信じ、「出直し、生まれ更わり」の教えを心の支えとして通ってきました。その義母が「佳乃ちゃんは、きっと元気で帰ってくる」と言ってくれたからこそ、私はその言葉にすがることができたのです。 佳乃は肺炎で高熱が出ていても、まだ命をつないで頂いている。義母が通ってきた道に比べたら、私の苦しみはほんの些細なものだ。私は親神様に心からお礼を申し上げました。 親から子、子から孫へと運命が受け継がれ、本来なら佳乃も同じように命が切れていくはずのところを、喜びを見つけて通ってくれた親のおかげで、魂に徳を頂き、大きな病を二回に分けてもらえた。大難を小難にして頂いたのです。 もうすぐ小学生になる佳乃には、ランドセルを背負って元気に学校へ通えるだけの徳を頂きたい。そのためには、身の回りの一つ一つの物を大切にして、その物の命を生かすことが、我が命を守って頂ける徳につながるのではないかと思いました。 そこで小学校入学にあたり、服も下着も靴下も学校の用具も、一切新しい物は買わずに、すべてお古として頂く物だけで通らせることにしました。 ランドセルは、長女が六年間使い終わったばかりのものがありました。親の目から見ても、とても綺麗とは言えないランドセルです。佳乃は、このランドセルを喜んで使ってくれるだろうか…。 「こんなボロボロのランドセル、誰も持って来ないよ。みんなピカピカのだよ。嫌だよ!」そんな娘の声を想像してしまいました。 しかし、徳を積むためには全ての与えを喜んで受け入れなければならないと思い、まず長女に話をしました。 「六年間、...
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