『流れのほとりに』のカバーアート

流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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このコンテンツについて

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • 【衣】脱がせて、着せて、かぶらせて(ゼカリヤ書3章1節~5節)
    2025/07/06

    序)ゼカリヤ書の時代背景

    ・バビロン捕囚からの帰還後、神殿再建の中断によって、民の信仰が冷えゆく時代。ゼカリヤは回復と希望の幻を通して、神の民の再生を語る。

    ・3 章の幻は大祭司ヨシュアが主によって「脱がされ、着せられ、かぶらされる」出来事。

    1)ゼカリヤの幻:ヨシュアが脱がされ、着せられ、かぶらされる

    ・法廷の場で、ヨシュアは告発者サタンに責められるが、主がサタンをとがめ、ヨシュアを弁護する。

    ・火から取り出された燃えさし=神に選ばれ、さばきから救われた者。

    ・汚れた服(背き)を脱がされ、大祭司としての礼服(礼拝の務め)を着せられ、ターバンをかぶらせられる。

    2)私たちが脱がされ、着せられ、かぶらせられること

    ・イザヤ 61 章、エペソ 4 章とも響きあう「衣を脱ぎ、衣を着る」救いのしるし。

    ・キリストによって罪が脱がされ、義と聖の新しい衣が着せられる。

    ・動詞は「中動態」=自らの意志によって脱ぎ、着る。「アオリスト」=主イエスによる一度限りの決定的な救い。

    ・キリスト者は、主の愛に主体的に応答し、繰り返し思い出しながら「キリストを着続ける」。

    ・逆風の中でも、キリストという衣は私たちを守り、温めてくれる。

    3)私たちに栄冠がかぶらせられること

    ・ヨシュアがかぶったターバン=大祭司の冠。これは私たちにも与えられている。

    ・Ⅱテモテ 4:8、黙示録 2:10「義の栄冠」「いのちの冠」=主の前に立つ特権としての印。

    ・終末だけでなく、主の日である今日にも与えられている。

    ・告発者サタンの声に押しつぶされそうになる日常にも、キリストの十字架の救いが働いている。

    ・今ここで礼拝をささげる私たちは、すでに主の栄冠をいただいた者。

    結)脱がされ、着せられ、かぶらせられた者として生きる

    ・私たちは、「自分だけが救われるため」ではなく、人々を神に立ち返らせるために衣を着せられている。

    ・私たちもまた、新しい神殿再建の働き人。礼拝を整え、人々が主に応答できるように仕えていく。

    ・主の恵みに応答し、主の前に出る特権に生きる者として、今週も証ししていきたい。

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    31 分
  • もっと祈りたい(マルコの福音書9章14節~29節)
    2025/06/22

    序)イエス様の言葉に戸惑う

    ・イエス様が 3 人の弟子と山に登っている間に「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」につかれた男性が連れて来られ、麓の弟子たちはこの霊の追放ができなかった。その理由に私たちは戸惑う。

    1)この種のものはメシアでなければ追い出せない?!

    ・この当時、悪霊追放の術式がある程度確立されていて、悪霊とコミュニケーションを取って、その名を聞き出すことができれば、追放が可能だった。それゆえ「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」は厄介であり、メシアが来られるまでは癒されることはないと考えられていた。

    ・「祈りによらなければ」とは、大きな問いを発する言葉である。

    →現代社会において「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」の問題に向き合う可能性は低いが、これは「神の国が臨んでいるしるし」であり、神の国の力を具体的に現すことは現代も変わらないはずである。

    2)山の上と山のふもと~天に昇られたイエス様と地上の私たち~

    ・15 節の群衆の驚きを含め、麓の様子は、イエス様不在の世界を象徴する。イエス様は天に昇られて目の前にはいない。そういう世界で手をこまねいて議論ばかりする(再臨ばかりを待ち望む)私たちの姿である。

    ・イエス様の登山はモーセのシナイ登山と重ねられている。モーセ不在の中で、イスラエルは金の子牛を造る。弟子たちは不信仰を露わにする。

    ・「いつまで一緒にいなければならないのか」は「いつも共にいます」とは矛盾しない。別の表現で「いつまで、あなたがたのお世話係をしないといけないのか」という嘆きである。イエス様に見捨てる意図はない。

    ・共に歩むとは自立した人格同士の行うことであり、もたれ合い、甘え合うことではない。神に甘えた状態では、御国の現れが限定される。

    3)「祈り」への挑戦

    ・「祈りによらなければ」は福音書を受け取った教会にも戸惑いを与えたことが「祈りと断食によらなければ」と書き加えた写本から推察できる。

    ・これまで続けて来た祈りはほとんど「神に頼む祈り(願い)」だったとすれば欠落していたのは「神に頼まれる(状態になる)祈り」ではないか。

    ・神に頼まれる祈りには、覚悟が要る。自分を「危険」にさらすことである。イエス様が山の上で祈られたのは、この祈り。御言葉(モーセとエリヤ)との対話を含む理性的なもので、自分を変える祈り。

    結)もっと祈りたい

    ・「主の祈り」の前半は「神に頼まれる祈り」だと気づかされる。

    ・「できるなら」は「神に頼む祈り」の世界「信じる者にはどんなことも」が神に頼まれる祈りの世界である。

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    49 分

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