『流れのほとりに』のカバーアート

流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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このコンテンツについて

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • 教会で食べたり飲んだりする理由(ルカの福音書5章27節~32節)
    2025/05/18

    序)教会ご飯の思い出

    ・教会で一緒に食卓を囲むことは、教会という存在を象徴する大切な活動です。福音書には、イエス様が人々と食事をする場面が色々あります。そしてイエス様の犠牲と将来の約束を思い出すようにと示された聖餐式もまた、直接的に食べて飲むという行為です。

    1)取税人レビ

    ・取税人という仕事は、今でいう税務署職員のようなイメージではなく、ローマの統治構造と税制を利用した、公認の個人ビジネスといえます。大きく稼げることと引き換えに、人々からは嫌われた仕事でもありました。自分の生き方はこれでいいのか。でも立ち止まることもできない。そのような空しさと忙しさの中にいたレビに、イエス様は私についてきなさいと声をかけられました。

    2)なぜ、彼らと食事をするのか。

    ・食事を一緒にすることは隣人であることの表れです。

    ・レビが食事会を主催した目的は、イエス様を紹介するためだったのでしょうか。それとも隣人であり続けるためだったのでしょうか。両者を明確に切り離すことはできませんが、しかし伝道を上位の目的とするなら、隣人を愛しづらくなってしまうことがあります。相手が福音を受け入れるかどうかにかかってしまうからです。

    3)新しい世界を生かされている私たち

    ・イエス様は「今日この聖書のことばが実現しました(ルカ 4:21)」と宣言して公生涯を始められ、私たちの罪のために十字架にかけられ、しかし父なる神はイエス様をよみがえらせてくださいました。

    ・私たちはその宣言がなされた世界を今日も生きています。だから私たちは、「健康な人」にも「病気の人」に対しても、私たちは隣人となることができます。隣人であることそのものが、恵みがすぐそばに来ていることの宣言となるからです。彼らが自分が病人(罪人)であると気がついた時、イエス様の弟子である私たちが隣人としてそばにいることができますように。その時が神のタイミングで来ることを委ねて、今この時、今日も彼らを愛していきましょう。

    結)教会で食べたり飲んだりする理由

    ・私たちの隣人になってくださったイエス様は「わたしについてきなさいと今日も招いておられます。私たちは今週、誰の隣人として歩みますか?

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    38 分
  • 大胆な祈りへ~すべてを始める 3 つの愛~(エペソ人への手紙2章1節~8節)
    2025/05/11

    序)私から始めるのではなく、神様から始める

    ・神様の大胆な恵みを受け取る時、大胆に求め、従う歩みへ導かれる。

    ・罪のマインドは「私がこれをしたら、神様はどうしてくれるか」と考えさせ、小さな労力で大きな成果を生むにはどうしたらいいかという「取引」思考(≒神をコントロールする偶像崇拝)に陥らせる。

    ・すべてのことは神様の愛(アガペー)から始まっている。この愛を 3 つの角度から整理して学ぼう。

    1)存在を喜ぶ“ユードキア(喜び)”の愛(1 章 5 節)

    ・神の愛は、存在を喜ぶものである。役に立つかどうかで測られない、存在に価値が認められている。無条件の愛、ありのまま愛されているということ。

    2)必要を見過ごしにできない“エレオス(あわれみ)”の愛(2章 4 節)

    ・アダムが神に背いて以降、人類はまことの神に背く世界に生まれてきて、その背きをコピーしてしまい、神ではないものに従って生活している。そのため、からだは生きていても、霊的に死んでいた。

    ・そのような私たちを神様は「自業自得」として放っておかない。それがあわれみ(エレオス)である。

    ・相手の痛みを自分の痛みとして引き受ける覚悟を含んだ愛である。

    ・愛の反対は無関心と言われる時、この側面について語っている。

    3)賢く与える“カリス(恵み)”の愛(2 章 7 節)

    ・人間の恋愛で描かれることの多い「奪う愛」「求める愛」と対照的で、相手のニーズを満たすために喜んで、賢く与えること。

    ・ニーズを見定められなければお節介になり、欲望との区別ができなければ、依存や支配、利用関係に陥る。

    4)すべてを始め、養い育て、完成に導く愛(アガペー)

    ・聖書の言う愛は感情ではなく、意志に基づくもの。

    ・3つの愛が1つになった神の愛で愛されるところに、子どもたちの健全な成長があり、キリストの姿へと近づく成熟があり、神の国への変貌がある。

    結)「愛されるだけ」の者から「愛されて、愛する」者へ

    ・成長とは、「愛されるだけの者から、神の愛をもって愛する者へと変えられることである。

    ・「愛すること」に夢中になって「愛されること」を忘れないようにしたい。「愛されること」を忘れると「存在を喜ぶ愛」が「理想を喜ぶ愛」に、「あわれみ」が一方的になり、「恵み」は枯渇してしまうから。

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    44 分
  • 聖なる、傷のない者に(エペソ人への手紙1章3節~14節)
    2025/05/04

    1)TCU での学びに導かれた証し

    ・エホバの証人(異端カルト)だった母、ついて行っていた私。父がカルトに気づき、牧師とともに救出活動をする。家族で教会につながる。

    ・大学のサークルでの後輩との出会い。話した結果、彼は関係を絶ってくれた。その時に感じた様々な痛みと悲しみ。働きの必要性を覚えた。

    ・祈りの中で与えられたエペソ 1 章 4 節。神様がすでに与えられている完全な癒し。それを受け取り続ける私たち。TCU の学びへ導かれる。

    2)キリストにあって選び、御前に聖なる、傷のない者に

    ・神様の選びと回復の約束は、私たち一人ひとりのうちにもある。

    ・私たちはキリストの血に贖われていて、背きの罪の赦しを受けている(7 節)。私たちの葛藤も戦いも、完全に赦され、回復されている。

    ・キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者とされている(11 節)。

    ・約束の聖霊を送り、神様のものとされた証印が押されている(13 節)。

    ・聖霊は御国を受け継ぐことの「保証」=「手付金」でもある(14 節)。御国を与える前に、前もって聖霊が私たちに支払われている。

    3)一切のものを、一つに集めるために

    ・「手付金」を受け取った私たちが備えておくべきは「私自身」。神様のものとして仕えていく。

    ・これは決して搾り取られる一方的なものではなく、感謝をもって仕えて行くなかで、キリスト者として生きる喜びが与えられる。

    ・神様のみこころの奥義は「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」こと(9-10 節)。

    ・キリストをかしらとして、私たち、そして世界は一つに集められ、一体とされるという奥義のために、私たちは仕えていく。

    結)御前に聖なる、傷のない者として

    ・世界を一つに集めるという神様のみこころのために仕えるとき、私たちは喜びあふれる。

    ・「府中市をキリスト教都市に!」そこには、必ず神様が全世界を造られる前から選んでくださっている方々がいる。聖なる、傷のない者とされるように備えられている方々がいる。

    ・私たちも喜んで、そこに仕えていきたい。

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    26 分

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